1 小早川家の出自
関東武士から安芸国人へ

    土肥實平を祖とする
小早川氏は、鎌倉初期の武将、土肥實平(次郎)をその祖とする。土肥氏は桓武平氏良文流の系統で坂東八平氏の一つに数えられる。實平は相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町付近)を本拠として土肥氏を称し、弟の土屋宗遠らと相模南部で強力な武士団を形成した。土肥氏が小早川氏を称し始めた原因は不明であるが、實平の嫡子遠平が相模国早河荘(現在の神奈川県小田原市付近)を領し、領内を流れる早川の名をとったという説が最有力である。實平・遠平父子は治承4年(1180)源頼朝による伊豆での挙兵以来、その麾下に属し、石橋山の敗戦後、一時頼朝を自らの本拠土肥郷に迎え入れ、頼朝が安房へ逃れる際にも付き従っている。その後、平氏追討のため西国出兵にも従軍しており、元暦元年(1184)一の谷合戦で實平は、源義経の軍勢に属している。同年2月には頼朝から備前・備中・備後の三カ国の守護に任じられ、並びに西国の庶務の統括を命ぜられ、前線においてかなりの権限を与えられていることがうかがえる。
平氏は文治元年(1185)壇ノ浦において滅亡するが、それに伴い平氏一門及び平氏方武士の所領の多くが闕所地となる。いわゆる平家没官領である。この時遠平は、平氏追討の勲功として、平家没官領である安芸国沼田荘地頭職を拝領している。沼田荘は京都の蓮華王院を本家領主とし、実質的には平氏の家人沼田氏が所有していたが、沼田氏が平氏一門と運命を共にしたため、その後に土肥氏が地頭として入部したものである。また土肥氏は、沼田荘以外に備後国有福荘、周防国大島荘、長門国阿武郡を実力で横領している。しかし文治2~5年にかけて、本来の領主である公家、寺社からの巻き返しにより荘内での違乱停止を頼朝から命じられ、西国においては沼田荘のみを領有することになる。

    和田の乱後
實平は頼朝が征夷大将軍となる前年、建久2年(1191)11月に没し、遠平がその跡を継ぐが、實平・遠平の時代には、まだ本拠は関東にあった。その小早川氏が安芸国を本拠とするようになるのは遠平の養子景平、その子茂平の代になってからである。遠平には本拠の土肥郷を譲った実子維平があったが、実子とは別に、当時幕府内で頼朝の信任が厚かった平賀義信は、清和源氏の一流信州佐久源氏で、源頼義の三男新羅三郎義光の孫にあたる。時期は不明だが、遠平は養子景平に安芸国沼田荘を譲っている。さらに景平は沼田荘を分割し、建永元年(1206)6月20日に沼田荘のうち本荘及び惣領地頭職を長男茂平へ、沼田荘新荘を次男李平に譲り、翌建永2年4月、将軍源実朝から安堵の下文を得ている。沼田荘は遠平の養子景平の系統に相伝されるようになるが、結果として、この措置が小早川氏にとっては幸いとなる。というのも、遠平の実子維平の系統は、建保元年(1213)和田の乱の際に和田義盛に味方して敗れ、維平の長男、次男ともに討ち死にし、維平も刑死し、わずかに三男の維時が生き残り、土肥氏は存続するが、實平・遠平時代に相模国南部に形成した勢力は失われた。しかし沼田荘はすでに景平系統が相伝しており、小早川氏のもとに残された。この和田の乱を契機として、土肥・小早川氏の嫡流は景平の系統へ移り、その本拠も関東から安芸国へ移っていくことになる。





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