2 小早川隆景の領国経営
海を支配する家

    隆景の領国経営
「殿は、その深い思慮をもって平穏裡に国を治め、日本では珍しいことだが、同国には騒動も叛乱もない」
戦国の世を見つめてきた宣教師ルイス・フロイスは、天正13年に伊予の大名となった小早川隆景の領国経営のありさまを、このように高く評価していた。その優れた才能は、父元就が見抜き、やがて秀吉からも期待される。隆景が進めた領国経営とは、どのゆなものだったのだろうか。
元就の三男として誕生した隆景の生涯は、①小早川家を相続し、その当主となって自らの領地を支配する時代を基盤に、②兄の吉川元春とともに毛利家の政策決定に関与し、当主隆元、輝元を補佐しながら、毛利領国の一翼を支える時代、③豊臣政権から四国の伊予を任せられ、独立的な大名としての伊予の支配を担う時代、④豊臣政権から九州の筑前・筑後を与えられ、独立大名として領国の支配を担うとともに、豊臣政権の大老として、輝元と共に西日本を統括する地位に就く時代、以上の四期に大きく分けられる。隆景は、毛利家の重鎮として活躍する顔と、豊臣政権の重鎮として活躍する顔の二つの顔を併せ持っていたのである。その支配拠点は、安芸の竹原・沼田、備後の三原、伊予の道後・湊山、筑前の名島というように、日本の大動脈であった瀬戸内海から、北九州、そして大陸を結ぶ海の要衝に位置していた。隆景の支配は、瀬戸内海の支配―内海の物流支配と深くかかわっていたのである。

    元就の小早川家吸収合併策
瀬戸内海の支配には、小早川家の歴史そのものとも深くかかわっていた。室町時代の小早川家は、安芸の国人として幕府の奉公衆を務める名門であり、瀬戸内海の要衝として栄えた沼田と竹原を拠点に、二つの小早川家に分かれ、安芸の南東部を中心に、芸予諸島にまで勢力を浸透させていった。さらに北九州にも拠点を設けて南洋の物資を入手し、朝鮮とも積極的に交易をおこなった。こうした小早川家の活動を支えていたのが警固衆(水軍)として編成された各地の海賊衆である。一族の中からも、小泉・浦・生口氏のように海賊衆として海を支配するものが現れ、瀬戸内の海賊衆として名高い因島・来島・能島の村上氏とも深く結び合っていた。彼ら海賊衆は、一定の海域を抑え、通行する船から警固料を徴収した海の領主であり、畿内から九州、さらには大陸との交易にも深く関与していたから、内海の制海権を握り、物流を支配してくうえで、その掌握と連携は不可欠だったのである。まさに小早川家は海賊衆を擁し、瀬戸内海の物流を握りながら発展した海の領主だった。
元就が三男の隆景を小早川家に送り込んだのも、こうした内海の物流を押さえる小早川家の存在に注目したからだ。天文10年(1541)元就は、大内軍と共に安芸金山城主の武田氏を滅ぼし、広島湾の物流センターであった太田川の河口周辺に領地を確保して、瀬戸内進出の足掛かりを築くが、隆景の小早川家相続は、それから3年後の天文13年のことであり、海の支配を目指す元就の戦略の一環でもあったのである。
それはまず竹原の小早川家から実行された。次いで19年には、沼田小早川家の相続も実現させて、小早川家は、隆景のもとで一つにまとめられる。翌20年10月、隆景は沼田の高山城に入城する。隆景19歳の時である。
    雄高山城の建設
こうして元就は、海を支配する小早川家の掌握に成功した。このため新当主になった隆景の支配も、海の支配と深くかかわりながら展開していくことになる。その最初の仕事が高山入城から、わずか8か月後の21年6月に行われた雄高山城の築城である。その頃吉川家を相続した元春も、吉川家の本城である小倉山城を廃し、日山に新たな城を築いていた。このことから、この二つの新城は、毛利家から相続した元春・隆景による新たな体制のシンボルとして築城されたと言えよう。
しかし隆景の新城建設は、それにとどまらなかった。新たに築かれた雄高山城は、沼田川を挟んで高山城の対岸にあり、標高(197m)も変わらない。けれども、沼田川を天然の濠とし、急峻な斜面を持つ雄高山城は防禦に優れ、何よりも瀬戸内海方面を望む点で、高山城に勝っていた。しかも、このころの海岸線は今よりも内陸部にあったから、三原の市街地の多くは海面下にあり、沼田川は雄高山城の麓あたりで広がって、海は近くまで迫っていた。
隆景は、瀬戸内海方面を眺望する雄高山城を新たな拠点とすることで、警固船の発着を容易にし、海の支配に乗り出したのである。そして、ここを基地とした小早川家警固衆は、毛利直属の警固衆と連携しながら、厳島合戦や門司沖海戦などの軍事作戦をはじめ、人員や物資の輸送、さらには船の建造や船着き場の建設に至るまで、毛利領国の発展に大きな貢献を果たしていくのである。
こうしたことから隆景の領地に対する関心も、瀬戸内海の沿岸部や島嶼部に向けられた。厳島合戦後、毛利家当主の隆元は、内陸部の黒瀬を隆景に与えようとしたが、隆景はこれを返上し、そのかわりに広島湾の南にある能美島を要求した。そこには、沼田から三原、竹原、音戸瀬戸を経て、能美島、さらに周防国の由宇まで、瀬戸内沿岸部を支配し、内海の水運を広域的に統制していこうという隆景の狙いが秘められていたのである。





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