(1985.8.21)
清原のためにあった甲子園球場

私が子供のころの英雄が王貞治氏であり、成人してからは野茂英雄とイチローがそれに匹敵する存在であるが。
子供と成人の間に当たる「青春期・思春期」に私が、ある意味王氏や野茂、イチロー以上に大きな期待をした存在がある。それこそが、PL学園から西武・巨人等で活躍した清原和博だ。
彼の転落人生については、罵倒しても足りないほど言いたいことがあるが、今日はここではそれは書かない。私を本気で魅了させるはずだった清原が、実は最も輝いていた時代の話をする。

もっとも彼が輝いていた時代、それはPL学園3年生の昭和60年の夏であろう。このとき、PL学園は全国制覇を、圧倒的な強さで成し遂げた。清原はこの大会で5試合で5本塁打(当時の記録)を放つ。しかも凄いのは、弱い相手に連発したのではない。準決勝と決勝でそれぞれ2本づつ放ち、準々決勝でも大会屈指の剛速球投手中山裕章からの本塁打であった。相手が強くなればなるほど、上位に来れば来るほどこの大会では打ちまくったのだ。

2の項目で私は「王貞治氏の756号の瞬間を超える名場面にはおそらく出くわしていない」と言い放ったが、訂正する。実は756号に匹敵するシーンは高校野球にあった。そう、それこそが清原がこの大会の決勝戦で放った2本の本塁打、特にこの2本目のセンター方向への大飛球であった。
失礼ながら、王氏の本塁打はライトスタンド前段であり、さほど飛んだわけではない。清原の本塁打はプロ入りしてからもそうだったと思うが、明らかにわかる本塁打が実に多い。この日の本塁打もまさに「打った瞬間に本塁打」といえるものだった。

決勝戦で投げるエース桑田真澄は、正直最高の出来とは言えなかった。3年当時の彼は2年のころまでに比べると、投球自体がさほど迫力あるものではなく、丁寧に投げて凌ぐ、といった感じであった。蓄積疲労がすでにピークだったこともあろうが、この日も宇部商打線にとらえられ、6回までに3点を失っていた。
2-3、宇部商リードで迎えた6回裏、清原が打席に立つ。
すでに本塁打を前の打席で放っていた。対する宇部商の投手は古谷。
前の打席ではレフト方向へ(これも打った瞬間本塁打とわかるものだった)弾丸ライナーを放っている。

そしてこの打席でも清原は本塁打を放つ!
「ホームランか!?ホームランだ!」
そして植草貞夫アナのあの名口調が。
「甲子園は、清原のためにあるのか~!」
まさにそう、甲子園は清原和博のものだった。
そしてこの清原の輝きは、プロ野球選手になっても20数年間続くのではないか、そう信じて疑っていなかった・・・。


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