それぞれの東北支配 ~清原氏の場合~ |
前九年の役の際、清原氏は源頼義の再三にわたる誘いを受け、ついに頼義に味方して安倍氏を滅ぼす原動力となった。「陸奥話記」はそのことについて、頼義は「出羽の山北の俘囚の主」の清原真人光頼、舎弟の武則等に説いて官軍に与力させたと記している。また右大臣中御門宗忠の日記「中右記」にも、後三年の役において源義家が俘囚を追討したと記しており、後三年の役当時に清原氏を俘囚とする見方があったことがわかる。 前九年の役に参戦した清原氏一族のなかには武則や、その子で第一陣の押領使となった武貞、第七陣の押領使となった清原武道のように清原を姓とする者のほか、第二陣の押領使となった橘貞頼、第四陣の押領使となった橘頼貞のように橘を姓とする者、第三陣の押領使となった吉彦秀武や第六陣の押領使となった吉弥候武忠のように吉弥候・吉彦を姓とする者がおり、清原陣営は清原、橘、吉弥候らの連合組織であった。そして立花貞頼は武則の甥、頼貞は貞頼の弟、吉彦秀武は武則の甥であり婿でもあるというように、強い同族結合を保っている集団でもあったのである。
しかし清原本宗家は俘囚の家系であった証拠は薄い。後三年の役について「中右記」は俘囚を追討したと記すが、「後二条師道記」んどには俘囚の語は見えず、「本朝世紀」「百練抄」なども賊徒とあるのみで、俘囚の語はない。「吾妻鏡」にも義家が奥州において、将軍三郎武衛や四郎家衛と合戦したと記すのみで、俘囚と戦ったとはない。前九年の役の安倍氏の扱いとは違いがみられる。 「陸奥話記」では清原武則は武則真人と記されているが、真人とは朝臣、宿祢などとともに天武八姓のひとつであって、しかもその筆頭に位置し、宣化天皇の曾孫の左大臣多治比嶋など皇室に極めて近い氏に与えられた由緒あるカバネであって、地方の豪族が勝手に名乗ることができたとは思えない。出羽の清原氏も中央の清原氏と何らかのかかわりがあった可能性が極めて高いようである。
また、平安初期の歌人清原深養父、清少納言の父で三十六歌仙のひとりの元輔も中央の清原氏の一員であった。「清原系図」では出羽山北の清原氏を清原深養父の系統とし、特に出羽清原氏の家系を中心とする別本五では、深養父の孫の基貞の曾孫が武則とされている。もっともこの系図も、そのまま信用できるほどのものではないことは、安倍氏関係の系図と同様である。 中央の清原氏と出羽国との関係で注目されるのが、元慶の乱の時の出羽権丞の清原令望で、出羽の清原氏は彼に始まる説が有力である。令望みは元慶の乱に際し、良吏として聞こえていた藤原保則が出羽権守に起用されるにあたり、保則を助けるべく左衛門権少尉在任のまま出羽権丞に任命された人物である。令望は乱のさなかには実戦にも従事し、戦いが終息に向かうと秋田城の城司になって現地の安定に一役買っている。 最も令望はその後寛平7年には太宰少弐として博多警固所に配置されていた夷俘を統括したいたことを示す史料もあって、元慶の乱後そのまま出羽にとどまったわけではない。令望の子孫が出羽に残され、そのまま出羽清原氏になった可能性はあるが、記録に伝わらない令望以外の清原氏の子孫が出羽清原氏の祖となった可能性もある。
この系図によれば武則の実父は平安忠で、この系統が海道平氏と呼ばれ、福島県の海岸部一帯を勢力下においていた。安忠の兄の兼忠は出羽介・秋田城介であり、兼忠の子維茂は「今昔物語」の陸奥国の兵余将軍の維良と同一人物の可能性が高いという。 そして前九年の役の発端となった陸奥守藤原登任が安倍氏を攻めた際、その先鋒を務めた秋田城介平重成は維茂の子である。さらに藤原武則の孫、武貞の子真衛が養子に迎えた海道小太郎成衛は重成の子の貞成の子である可能性が高いという。 さらに真衛の叔父武衛は、越後の城資国に嫁しているが、城氏は維茂の子の重成の子孫である。また、清衡の妻、基衡の母は平氏と伝えられ、或は彼女も海道平氏につながる人物だったかもしれない。従来、成衛が清原真衛の養子に迎えられた理由は、武則が平氏の流れをくむ人物であったとすればそのなぞは解ける。 なお、秀衡の平泉館跡という柳之御所遺跡から出土した折敷に墨書された「人々給絹日記」には、藤原秀衡に極めて近い人物の名前が列挙してある。その中には「海道四郎」という名があり、成衛の縁者が平泉藤原氏の時代になお活躍していたことも推測できる。 いずれにせよ、出羽国の清原氏もまた兵の家であり、単純に蝦夷の酋長とはとても言えないのである。 |