慶喜は難しい立場であった。将軍後見職といっても、将軍の代理ではない。幕府の方針もはっきりしないし、諸大名との意見も一致しない。幕府がはっきりと京都の武力制圧方針であれば、それはそれで仕事もやりやすかったであろう。しかしそれも不明確であり、手の打ちようもない。もともとこのような情勢の中で、何かやろうと思えば軍事力・武力を背景にしなければ何もできない。一橋家当主の慶喜は、全くこれを持っていなかったといってもよい。さらに、彼のブレーンとなるべき有能な腹心もほとんどいなかった。情報収集や裏工作などが必要な際、慶喜の手足となって活動する人物はいなかった。これでは後見職という地位と、彼の弁舌に頼る他はない。だがそれではほとんど効果は上がらない。もっとも数千といわれる精兵を引き連れた松平容保でも、当面なす術がなかったのであるから、慶喜が武力を持っていたにしても、どれほどの事ができたかは疑問ではある。
いずれにせよ、将軍家茂と慶喜は、ようやく根拠地の江戸へ帰ることが出来る。
ところが、文久3年8月18日、会津藩・薩摩藩を中核とする公武合体派のクーデターが行われ、尊攘派勢力は京都から一掃された。さすがに武力を持っているものは強かった。こうしたあと朝廷から、将軍や慶喜に対し再び上洛せよとの呼び出しがかかる。これは島津久光の画策によるもので、京都には公武合体派の諸大名が集まり、慶喜も同年11月京都に入った。その後慶喜は、約4年間京阪地方にいることとなった。将軍家茂は翌元治元年(1864)正月入京した。朝幕関係は、ここに一和したかに見えた。
しかし朝廷、特にその頂点にいる孝明天皇は、あくまで攘夷派以外論者だった。この意見を何処まで幕府が貫くかが大きな問題であった。もう一つ長州藩に対する処分問題があった。後者は同年7月の禁門の変で解決するが、攘夷の問題では慶喜や雄藩主らとの意見はかみ合わなかった。そして慶喜は、島津久光・松平慶永・伊達宗城の面前で、「天下の大愚物、大奸物」と啖呵を切ったと言われる。それは酒席の暴言といわれるが、慶喜の本音であっただろう。こうして慶喜は公武合体派雄藩の支持を失ってしまうが、それと共に彼は3月、将軍後見職を辞任した。この事で慶喜の肩の荷が下りたかということではなく、彼は新設の禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮職に任命された。この事は朝廷から仰せ出されたので、将軍はこれを取り次ぐという形式になっている。
慶喜は再び妙な立場に立たされた。幕府の役職は何もない。と言って幕府から離れたわけでもなく、必要な武力は幕府に頼らざるを得ない。将軍は5月に江戸に帰ったが、慶喜は職務上京都に留まらなければならなかった。そのようなとき、7月に禁門の変が起こった。この事件で慶喜は大活躍をする。彼にとって最初の戦争体験であっただろう。と同時に、彼の生涯ただ一度の実戦指揮であり、幕府側に凱歌が上がった。はっきりした自分の職務が与えられれば、かなりその力を発揮できるという事がわかり、年齢も28歳という武人としてはもっとも働きやすい時期であった。
第一次征長の役が始まるが、慶喜はこれにはノータッチという立場に置かれる。恐らく不満であったろうが、これは将軍自身の仕事であった。当面慶喜を悩ませた事件は、水戸藩天狗党の西上事件であった。その首領武田耕雲斎は、かって慶喜が水戸藩から借りた人物である。彼らは、慶喜を頼って西上して来ている。だが慶喜は彼らを討伐しなければならない立場だった。降伏後の武田らの取り扱いは凄惨たるものがあるが、それは慶喜の責任ではない。しかし何かもう少し打つ手があったのではないかとも思う。 |