1・騎馬民族とは何か? ① 騎馬民族とその活躍舞台 乾燥地帯とオアシス |
シベリア |
第三は、この乾燥地帯の北側に沿って横たわる森林地帯で、東は北太平洋岸から、西はウラル山脈を越えて遠くバルト海岸に及んでいる。この、東西にわたってすこぶる長大な森林地帯は、主として北氷洋から吹き込んでくる風雲が、長白山脈、興安嶺北部、ヤブロノイ山脈、サーヤン山脈、アルタイ山脈、天山山脈、ウラル山脈などに突き当たって、それらの山脈の北斜面や山麓にもたらした相当量の風雪によってつちかわれたものである。そして、数多の大河川(黒竜江、レナ河、アンガラ河、オビ河等)がそれらの山脈から流れ出て、あるいはオホーツク海に、あるいは北氷洋にそそいでいる。 このアジアの亜湿潤地帯ともいうべき寒冷な森林地帯は、貂、狐、鹿、狼、熊などの獣類に富み、早くから良好な毛皮の供給地として知られたが、河川には鮭、鱒、鯉等の水産があり、この地帯が狩猟と漁業に好適な地域であることは、今も昔も変わらない。そうしてこの森林地帯と南方の乾燥地帯との接触地域には、森林にかこまれた草原地区を多く抱えており、オルコン、セレンガ河流域やイエニセイ、オビの上流域などはその代表的な地区であり、そこには古くから狩猟と遊牧を兼業とした住民が、放浪生活を続けていた。またその東方に当たって、森林地帯が湿潤地帯と接触する地区、すなわち満州の北部、東部、朝鮮の北半部などには、狩猟と共に農牧を営む民族が久しく占拠していたのである。 |
西南アジア |
第四は、ヒンズークン、エルブールス、コーカサスなどの諸山脈によって、自然の北境を形作られている西南アジア地区で、この地区は中央アジアの乾燥地帯に大体類似した景観を呈している。この地区はまた、周囲をペルシャ湾、アラビア湾、紅海、地中海、マルモラ海、黒海、カスピ海の七つの海(カスピ海は湖だが、まあ海みたいな大きさってことで(・_・;))によってかこまれているところから、それらの海に臨んだ地方で、局所的に降水・流氷にめぐまれた沃土を発達させており、この点に中央アジアの乾燥地帯との違いがある。 ペルシア湾にそそぐティグリス・ユーフラテス両河流域、カスピ海に沿ったエルブールズ北麓地方、また地中海に面したシリア、アナトリアの沿海地方などはその代表的なもので、そこでは世界の他の地方に先駆けて、非常に早くから農耕生活がはじめられ、都市文明が成立した。しかし西南アジア地区の大部分をなす、イラン・アナトリア高原、シリア・アラビア台地などは典型的な乾燥地帯で、そこは近年まで遊牧民、隊商民の天地であった。このように、農耕生活者と遊牧生活者とが早くから隣接しあい、長期にわたって互いに密接な関係を持ち合っていたのが、この地区の特徴であった。 |
騎馬民族が活躍する土壌があった |
以上述べたような、アジアにおける地理的環境の相違による四つの地域のうち、遊牧民が主として占住したのは、内陸ユーラシアの乾燥地帯と、西南アジアの乾燥地帯であったが、この両地域が騎馬民族の主要な発生地であり、活躍の舞台でもあったことは見逃せない。しかもそれらの地区では、ある時期からのちは、遊牧民族即騎馬民族と言ってもよいほど、両者は一体的存在をなしており、したがってこの種の民族を「遊牧騎馬民族」という名称で呼ぶことは、もとより不当ではない。 しかし騎馬民族をすべて遊牧民系とみなすことはできない。というのは、狩猟民族や、半猟半農、半猟半牧、半牧半農の民族であって騎馬民族になった者も決して少なくないからである。特に北方ユーラシアの森林地帯と、内陸ユーラシアの乾燥地帯との接触地帯や、その乾燥地帯からモンスーンの湿潤地帯への移行地帯などでは、非遊牧民系騎馬民族の出現が決して稀ではなかった。 しかしそれらの非遊牧民系騎馬民族もまた多くの場合、隣接した遊牧民系騎馬民族によって影響され触発された結果騎馬民族になったのであって、ユーラシアの騎馬民族の成立・発展における遊牧民族の役割は、やはり根本的に重要なものとして評価されねばならないであろう。 |