名君・上杉鷹山
 ~倹約の思想~
 


 鷹山の行動
藩政改革の最も大きな課題は、藩財政の再建であり、また、その基盤である農村の復興を図る事であった。しかし当面の政策として、一つは新たな収入の道を生み出す事、他方では支出を抑える方法を考えることである。具体的に言うと、一方は積極的な産業開発であり、他方は財政の縮小策、つまり倹約の実施であった。人間活動で言えば、まさに勤労と禁欲の実践でもある。政治と道徳を一体として考える、封建社会の政治理念としても、この両面の思想を確立し、実践することが強く求められていたのである。
しかし商品経済が発達し、特に18世紀後半になると、生活文化の発展が、武士社会を始め農村にも普及しつつある中で、いわゆる倹約思想も大きく崩れつつあった。庶民生活にも、貧富の差や社会的階層の分化が生まれ、深まるという変動は、米沢藩領にも次第に広まっていったことも事実である。
ここにおいて、改革を指導する鷹山の行動が大きな意味を持っていた。まず倹約の実践として知られている事例の一つとして、藩主台所所費の節減がある。新藩主となった鷹山は、その直後の明和4年9月、大倹約令を発布したが、自らの仕切料(衣食住、交際費)をこれまでの約7分の1の209両に減じ、奥女中も50人から9人に減らしている。この仕切料は、前藩主の重定の隠居後のそれに比べても、約3分の1であった。この台所費用は、倹約令の執行中だけではなく、最後まで変えていない。周りからは、仕切料の増額を勧められたが、これに対し「唯仕切等不足にて、欲すべき様なきが凡下の我輩」といい、不足こそが現在の自分の「厳師友」であると言って断っている。つまり、不足こそはともすると乱れがちな欲望を抑え、心と生活のあるべき規律を保持させ、緊張と意欲を高めるものだというのだ。
 己を律した生涯
のちに、水戸藩の藤森天山が、幕末の名君徳川斉昭に、幕府の大改革について奉呈したが、その際に鷹山の奥女中の減少の例を引いて諫めたことがあった。これに対して斉昭は、この数は妾の数であろう。多少は縮小しても、小さな大奥に戻れるものではないと批判したという。ともかく鷹山のこの実行は、諸侯や儒家の中で有名な事実となっていたことを示している。
衣食生活においても、鷹山は自ら厳しい倹約を生涯にわたって実践したことが知られる。最初の大倹約令は、鷹山が藩主となって間もない、明和4年9月、藩政中興の決意に続いて出されたが、12カ条からなるものであった。それは大般若経・護摩の執行及び年間の佳祝行事等の制限のこと、参勤交代の行列の縮小の事、そして食事は一汁一菜とすること、衣服の普段着は全て木綿にすること、などにわたるものである。先の藩主奥女中の減少のこともその一つであった。これらは家中を対象に出されたものである。やがて農村にも、地方役人の「郷村勤方心得」という形で、詳細にわたる厳しい質素倹約令が出されている。
鷹山の質素倹約ぶりは、下士以下ともいわれ、日常の食事も、朝は粥二膳と香物類、昼と夕食は、一汁一菜と干魚など軽い肴を摂るのを常とした。服装は、藩主在任中はもちろん、隠居後も下着まで全部木綿地を使っていたという。藩主時代、江戸で薩摩藩主の招待の責馬があったとき、諸家は近習まで美麗な乗馬袴をつけていたが、鷹山は木綿袴で見苦しかったという話も語り継がれている。身の回りの持ち物も全く飾らず、後々まで、秋月家から持参した三徳(鼻紙袋)や煙草道具をそのまま使っているという姿は、それを示している。
 鷹山の名言
また鷹山は、倹約思想について多くの名言を残した。寛政9年(1797)にだして「大倹差略」の中で、まず第一に倹約は、楽にできる事柄に力を入れるべきで、難しくなる事柄に苦心すべきものではない。「智者は事なき所を行うといへり」といい、第二は、上に対する費用を減じ、行事を簡約にすることが第一で、下を圧迫し、利害を争うような規則を、多く作るべきではない。第三は、日常の雑用は特に敏速に走る必要はない、などと述べている。また、これらの説明として、倹約は自然の理に従って行うことが良く、「竹に堅に割べし横に割べからず」といい、とかく倹約といえば、「上の事をば其の儘にして、下を損じて、費を厭ふ事に成行く」ことを戒めているのである。これらの基本に基づき、具体的な家中の倹約内容を二十四カ条にわたってあげている。
これは、幕府が越後警備や近江国の三門諸堂社の修理普請の軍役を命じてきたため、格別の倹約を促したものであった。相手の心理を読みながら、倹約の理由とその方法を述べるあたりは、まさに説得力がある。





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