三成の奉行としての能力・実力 ~太閤検地・刀狩り~ |
秀吉は、それまで各地で繰り広げられた戦国大名同士の領土拡張戦を「私戦」と位置づけ、天皇の命によって、「関白豊臣政権になびかない者を征討する」という論理を樹立し、諸大名を軍事的に抑圧するとともに、関白秀吉への臣従を強化していった。 天下統一が順調に進むと、それまでは軍事部門重視だったものが、次第に内政面重視へと徐々に軌道修正が図られ、その結果、いわゆる武功派とか武断派と呼ばれる武将たちに代わって、吏僚派とか奉行派と呼ばれる武将たちが相対的に浮上してくる形となった。それまで武将といえば、合戦での軍功、つまり槍働きが評価の対象だったのだが、秀吉政権においては合戦以外の部署の働きも評価の対象とされ、武功派と奉行派にほとんど差がなくなっていた。そのことを端的に巣メスの賀、武功派の筆頭とされる福島正則と、奉行派の筆頭とされる石田三成の待遇である。 福島正則が20万石を領していたとき、三成は19万4千石であり、わずかに武功派の正則を上に置いているが、これは秀吉の苦肉の策というべきものであった。武功はそれこそ、命を的に働いているという意識があり、秀吉はそうした武功派の意識を斟酌してわずかの差をつけたのであるが、秀吉自身としては「戦いが少なくなったのだから、これからは奉行派が大事」という認識を持っていたようだ。 一口に武将といっても、武闘が得意なものもいれば、計算などが得意なものもいたわけで、秀吉は家臣たちそれぞれの持ち味をきちっと見て、いわば適材適所の人事配置を行っていたことがわかる。石田三成らは、奉行職に最も適した能力を持っていたわけで、秀吉も彼らを実に巧みに使い、その能力を十二分に発揮させていたのである。
今日、広い意味で太閤検地というのは、秀吉が関白職を甥の秀次に譲って太閤になってからの検地ではなく、織田信長の死後、信長の命令ではない、秀吉独自に行ったもののことを言うのである。具体的には、天正10年(1582)6月の本能寺の変、それに続く清須会議によって、秀吉の山城・丹波両国支配が決まったとき、山城国で施行したのが最初である。もっとも、初めの頃は検地といっても、戦国大名や信長たちが行った検地とほとんど同じであった。それが大きく変化したのは、石田三成が検地奉行になってからである。 いつなりが検地奉行になるまでの検地は、基本的には指出検地と呼ばれるもので、その土地の領主が把握しているデータをそのまま提出するものである。だがこれは常に不正申告がともなっていた。そこで三成は、指出では不十分だとし、実際自分たちが検地奉行になって村に入り、棹や縄で面積を図り、またその土地の良しあしを目で見て年貢収量を決めていったのである。これを丈量検地といい、それまでの隠田や過少申告がどんどん摘発されていったのだ。 太閤検地の奉行となった武将には、三成の他には浅野長政・増田長盛・長束正家・片桐且元・大谷吉継らの名前が見え、いわゆる後年の「五奉行」の面々のうち4名がいる。検地奉行が秀吉政権の奉行職の中でも特に大事な職掌だったことがわかる。
太閤検地の施行原則の一つに「一地一作」というものがある。実際にその土地を耕作する者を検地帳に載せ、それが名請人となるもので、それまでの複雑で重層的な土地所有の関係を清算し、兵農分離の確立を狙ったものであった。 検地奉行として農村の実情を熟知していた三成が、秀吉政権の長期安定化の為、こうした太閤検地・刀狩りを推進していったのである。 |