上杉謙信とは ~神仏の信仰~ |
7歳の時、林泉寺に入り、天室光育のもとで薫陶を受けたが、この年には父為景を失っていた。 天文22年(1553)24歳で上洛の時、仏門に入る決心を固め、寒い12月に臨済宗の禅寺柴野大徳寺91世徹岫宗九を訪ね、参禅して有髪のまま僧となり、法号を長尾入道宗心と命名された。これより景虎の名を廃し、宗心つぉいて読経懈怠なく、功徳善根を施した。 弘治2年、27歳の時、戦国騒乱の時勢に嫌気がさして、世を遁れようとした。6月28日、恩師天室光育に長文の書状を出し、その旨を訴え、春日山の諸将に知らせた。 謙信遁世の事が巷間に広まるや、春日山城内でも騒然とした。早くも重臣大熊備前守朝秀は、武田信玄に誼を通じ、越中に奔り、越後へ攻め入ろうとした。長尾政景ら重臣は、謙信の遁世を中止するよう強く懇請して、思いとどまらせた。 事実、謙信不在となれば逆徒蜂起して、越後は治まらぬ情勢にあり、止むを得ず遁世を断念して、長尾景虎に戻って、政務を見ることにした。
謙信は八宗に通じたと言われているが、特に造詣が深かったのは禅宗で、のちに真言宗の信仰が最も厚かった。彼が禅学を学んだ高僧善智識には天室光育をはじめ、徹岫宗九・鉄堂・法興・通天のほか安国寺・至徳寺・楞厳寺・顕聖寺などの名僧があったが、天室光育の去った後を継いだ林泉寺7世益翁宗謙に負うところが多かった。法号謙信の謙の一字は宗謙から与えられたので、不識庵の号も宗謙と禅問答の一語からとったものである。宗謙の薫陶によって、謙信は禅学ばかりではなく、処世(戦争も含む)上、大悟徹底の境地に達したといってよい。 謙信はまた深く真言密教に帰依した。春日山城内北の丸の大乗寺長海につき密法を受け、平生護摩を焚いて不浄を焼き浄め、武運長久の祈願を籠めた。 天文22年の上洛の際、寸暇を得て紀州の高野山金剛峰寺に参詣した。無量光院の住職阿闍梨清胤は高徳な善智識であった。謙信は清胤に密教の真諦を学んで帰った。 二回目の上洛の永禄2年にも無量光院を訪ね清胤から弘法大師の真筆一本を贈られた。同5年には清胤を越後へ招いて伝戒の師とし、師弟の契りを結んだ。元亀元年(1570)冬の頃から謙信の法号を用いた。天正2年(1574)12月29日、清胤を師として秘密印明を受け、剃髪して法体となった。ときに謙信45歳、多年の宿願であった名実ともに坊主になった。やがて大覚寺の義俊の執奏により法印大和尚に任じられた。同4年正月、清胤が越後にやって来て真言秘宝の全部を授けられ、阿闍梨権大僧都に昇進した。
謙信は単に禅宗に帰依したばかりではなく、八宗兼学の相がある。要するに仏教全般の長所を身につけようとしたのである。 天文22年4月、天台宗延暦寺座主二品尭尊法親王から、大講堂造営の資金寄進を頼まれて、黄金2百両を献じ、その年の秋に比叡山へ詣でて、延暦寺法主と対談した。 また信濃善光寺大御堂の本尊を奉じて帰り、伽藍を府内に建てて安置し、善光寺町という門前町を設けた。 日蓮宗にあっては謙信は、本成寺の日意と懇意になった。時宗の称念寺を再興したのも謙信である。浄土宗の百万遍智恩寺岌州は会津の人だが、初め、後智国分寺から出世した縁故で、謙信は殊に別懇となり、永禄4年に京都から越後へ招聘して待遇した。その関係から春日山麓に長恩寺を建立した。 長尾氏は歴代浄土真宗を敵視していたが、謙信が上洛するに及んで手を握り、浄興寺・本誓寺を城下に移し、特に布教を許すなどの恩典を与えた。 越後が北陸諸国と並んで,真宗王国になった素因は謙信にあるといってよい。天文22年上洛の際、謙信は大坂の石山にある本願寺を訪ね、光教証如上人に太刀・馬・砂金等を寄進した。 石山本願寺が織田信長と戦った際、本願寺が信長の大軍に11年もの間対抗し得たのは、越後真宗寺院門徒の石山籠城や、絶えず黄金・米・麦・塩・味噌など兵糧物資に輸送があったからで、謙信も本願寺を応援している。 |