上杉謙信とは ~好学文芸の片鱗~ |
謙信はまた和歌の嗜みも深く、天文22年(1553)に上洛したとき、関白一乗兼冬・右大臣西園寺公朝の邸を訪ね、歌道の秘訣を学び、大納言公光について源氏物語・伊勢物語等の疑義を質した。 将軍足利義輝と和歌を応酬して、母の青岩院に贈ったものが上杉家に秘蔵されている。 弘治2年(1556)の冬、花山院少将・徳大寺侍従らが春日山城を訪れたとき、謙信は和歌の賀宴を張って旅情を慰めた。永禄2年(1559)の再度上洛の時、近衛種家に歌道を学んだ。種家の子、前嗣が謙信の人品を評して智恩寺キョウ洲へ「歌道執心の由、ひとしお奇特の由」と申し送っている。前嗣は、のち関白となり、越後へも来たが、謙信と刎頸の交わりを結んだのは、こうした文学にもよる。 同7年正月、謙信は常陸の小田城を守る小田氏治の不義に怒り、佐竹義昭とともに氏治を攻め、2千人を討ち取って降した。27日の夜、夢に歌句を思いつき、守袋の包紙を書きつけたという。こうなると、戦争に来たのか何しに来たのかわからない。天正3年(1575)2月29日、雪が降り積もった際にも、諸将を召集して連歌会を開催している。
武士(もののふ)の鎧の袖をかたしきし 枕にちかきはつかりの声 同5年、七尾城を下し、織田信長を追い、越前細呂木まで行ったところ、初雪が降って寒気が厳しいときの歌。 野伏する鎧の袖も楯の端も みなしろたへのけさの初雪 謙信は歌人ではあったが、詩作はあまり残っていないようだ。 また謙信は、書道にも堪能であった。最初は父為景の流儀を学んだものか、15歳の時、古志郡守門明神に納めた安堵状を見ると、父の字にそっくりらしい。 後年、和歌を近衛種家に学んでから、ゆったりとした麗筆になったという。これは近衛家が青蓮院書家の正統であるから、謙信はその書風に馴染んだのかもしれない。 上杉家には「伊呂波尽」の習字の手本がある。これは謙信が養子景勝のために特に揮毫したもので、漢字の左右に音と訓を書き添えてある。謙信は常に景勝の学問に注意し、奨励した。 永禄5年2月23日、関東の陣中から景勝の手紙の返事の一節に「返々細々いんしんよろこび入候。手跡あがり候へば、手本・・・」と、景勝の字の上達を褒め、ますますて本をよく見て勉強するよう励ましている。このように謙信は子弟の学問教育まで用意周到であった。
永禄4年4月1日、鎌倉八幡宮において能楽を張り、諸将士の労を慰めた。謙信がこの時、春日山城を守る留守役蔵田五郎左衛門に報告した書状にも「ここもと何事もめでたく候て来一日に宝生・金剛てやい能致し候。是又かたかたに見せ度候」と、謙信が得意になっているのがわかる。 この年の秋、川中島で強敵武田信玄を前にして、近侍の士に謡をうたわせ、自ら一調鼓を打ってはやし立てて歓を尽くした。時には陣中をも顧みず、悠々として一節笛を吹いて楽しんだ。 謙信が上京中、将軍足利義輝は室町の邸へ謙信を招いて能楽を催し、関白近衛前嗣も参会して、共に歓楽を尽くしたという。 謙信はまた、優れて琵琶の上手であった。暇さえあれば琵琶法師石坂検校を招いて語らせ、自らも語って楽しんだ。謙信の学問・文芸は趣味が多く、造詣の深かったことは、そのまま謙信の品性人格を物語っている。 |