上杉謙信とは ~越後守護代長尾氏~ |
謙信は春日山城を居城としていたため、春日山城で生まれたと思われがちだが、歴史家が最も信用する江戸幕府編纂の諸武家系譜である「寛政重修諸家譜」の記録には国府城、または府内城、府中城としている。 この「寛政重修諸家譜」というのは、寛永18年、幕府が全国の諸大名、旗本に命じて系譜を提出させ、若年寄太田資宗が奉行となり、林大学頭羅山らにより、「寛永諸家系図伝」を編纂した。それを寛政11年(1799)将軍家斉の時、堀田正敦の建議により、その続集の編纂を計画したものである。 寛永18年といえば、謙信没後僅か60年ほどである。米沢藩主上杉定勝が、幕命を受けて家臣に命じ、「藩祖の事績を知る者は、これを録して提出すべし。」と謙信に関する聞書、覚書まで提出させ、これを同藩の学者に調査を究めさせて幕府へ上申したものである。 最も誇るべき藩祖謙信の伝記を上申するにあたり、あやふやな事を書くはずがない。長命の者は謙信を知っていただろう。信憑性の高い「寛政重修諸家譜」の国府城誕生説が信憑性が高い。
父為景は謙信が7歳の時、春日山麓の曹洞宗林泉寺に修業にやった。林泉寺は謙信の祖父能景が亡父重景菩提の為に建てた寺である。そこで謙信は名僧天室光育の厳しい薫陶を受けた。 当時、春日山城下や越後府中(直江津)には儒者山崎専柳斎秀仙など多くの学者があり、名刹至徳寺、安国寺などにも学者・高僧がいたのに、何故為景は彼を林泉寺に入門させたのか。 天室光育が抜群の学僧であったこともあるが、為景は謙信を学問の修行より、坊主にしようとしたからではあるまいか。理由は、謙信の腕白の矯正と、病弱な長男晴景との兄弟争いをさせないためにということだろう。晴景にはすでに家督相続させたし、年齢は親子ほども違うから、その心配はいらないだろうが、為景が謙信に愛情を感じなかったこともあるかもしれない。 だが、結果的に、天室光育の教化は、思想的にも社会的にも謙信の生涯を大きく左右した。彼が一生仏堂と学問・文芸に精進しようと決意したのは、このころからであろう。
七分は禅僧であり、文人学者である。謙信は東西南北あらゆる方面へ休む間もなく戦い続けた。それでありながら、心を仏門に、また学問にひそめ、文芸の趣味が深かったことは、近世日本儒学の祖・藤原惺窩のこの言葉からもわかる。「近世、文を戦陣の間に好める者は、小早川隆景・高坂昌信・直江兼続・赤松広通と上杉謙信あるのみ」と。それでありながら、ほぼ不敗であり続けた戦国最強武将だったというのが実に痛快ですらある。 |