2・憲法改正と政党復活
近衛案と憲法問題調査委 

    近衛案 
日本の民主化を志す初期の占領政策は、憲法改正で一応の完成を見る。
1945年10月4日、GHQが思想警察全廃などの人権指令を発して東久邇内閣が瓦解したのと同じ日、マッカーサーは同内閣の副総理格の国務相・近衛文麿と会い、憲法を改正して自由主義的要素を入れる必要があると語り、「敢然として改正作業の指導の陣頭に立たれよ」と励ました。それは誤解、または通訳の間違いだったとの説もあるが、同日同席したアチソン駐日米大使のメモなどによっても事実だったらしいことが裏付けられている。近衛は内閣総辞職後は内大臣御用掛に任命してもらい、京都大学名誉教授・佐々木惣一をやはり御用掛として素案の起草にあたらせるなどの活動を始めた。これに対してアメリカの新聞は、「近衛は戦犯ではないか」と反発し、「もし彼が憲法を起草するにふさわしいなら、ナチスのゲーリングをして連合国の首領につかしめるべきだ(10月28日付ニューヨークタイムズ社説にて)」などと批判した。このためGHQスポークスマンは11月1日、近衛の仕事についてGHQは関与しないと声明した。しかし、近衛は自分はGHQではなく皇室との関係で仕事を進めているとし、同月22日、天皇に憲法改正「近衛案」を報告した。
    憲法問題調査委 
一方で幣原首相は、10月11日にマッカーサーと会った際、五大改革の指令と同時に「憲法の自由主義化」を指示され、13日の閣議で松本丞治国務相を憲法改正に関する研究の主任とすることを決めた。松本は憲法問題調査委員会を政府内に設置したが、近衛と違って幣原、松本は、はじめのうち憲法を改正する必要があるかどうかをまず調査するのだという態度であった。当時の憲法学界でも、「天皇機関説」で戦前に弾圧された美濃部達吉博士などは、改正の必要はないとの考えだった。しかし、やがて松本も改憲の必要を認め、私案を作ることになる。それは、このころ天皇制についての議論がだんだん盛んになってきたため、「天皇の統治権総攬の大原則には変更を加えない(45年12月8日 帝国議会松本答弁)ことではっきり決着をつけたかったからだ、と当時自ら説明している。
天皇の権限について近衛案では、その大権を制限して議会の地位を強化することなどを盛り込んでいた。それに対し松本の考えははるかに旧憲法に囚われていた。
アメリカでは、近衛らが憲法改正案の作成に着手したのを見て、SWNCCが検討を始める。その結果はSWNCC228文書「日本の統治体制の改革」として46年1月7日付で採択された。GHQでもGS(民生局)の軍服を着た法律家たちが、松本の言動や、民間の憲法研究の動向に注意を払いながら、政府案が出てきた時のチェック・リストの準備を始める。とくにGS法規課長M・E・ラウエル中佐の準備研究は、日本の戦前憲法論などについての調査研究まで及ぶ、かなり周到なものであった。



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