信長の心底 ~権威の受容と超越~ |
信長が焼香に立った。その時の信長の出で立ちは、長柄の太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴もはかない。仏前に出て、抹香をかっと掴んで仏前へ投げかけて帰った。弟信行は折り目正しい肩衣・袴を着用し、礼にかなった作法であった。 信長について「あの大馬鹿者が」と口々に取沙汰したが、その中で筑紫から来た旅僧一人だけが、「あの方こそ国持ち大名になるお人だ」といったとか。 ここから信長の権力闘争が始まる。周囲では「礼儀正しい」つまり老臣たちに共有されていた常識の通りに振る舞うことのできる弟の信行を支持する動きが当然出てくる。信長も、そのように振る舞って支持を集めることは可能だったかもしれないが、それでは何も変わらない。家臣たちに担がれるだけで、権力を自分に集中させてゆくことは困難である。常識を否定し、妥協を拒む「大うつけ」が、そのまま信長の現実の路線となった。 信長が生まれたときから守役として付けられていた宿老の平手政秀は、信長を諫めるため腹を切ってしまったという。家臣団の中にも深刻な反発が生まれていたことがうかがえる。
道三は、信長は不真面目な人だというから、それを笑いものにしてやろうとたくらんで、聖徳寺の御堂の縁に正装した家臣7,8百人を並べてその前を信長が通るようにし、自身は町はずれの小屋で様子を見ていたところ、果たして信長は例の袖を外した湯帷子に茶筅髪、腰の周りには「猿使いのような火打ち袋とひょうたん7つ8つ」、虎革・豹革の半袴という出で立ちで、しかし自らが考案した三間半の長い朱槍500本と弓・鉄砲500挺の軍勢を引き連れて現れた。 ところが信長は聖徳寺に到着すると、屏風をめぐらして髪を結い直し、誰にも気づかれずに作っておいた長袴と「ちいさ刀」を着用した姿で現れた。信長の家臣たちもこれを見て「たわけの姿はわざとだったのか」と肝を冷やし、侍たちの前をするするっと通って、縁の柱にもたれていた。道三が現れても素知らぬ顔であったため、道三の家臣が近づいて「山城殿(道三)でござる」と告げると、「であるか」と仰せられて内へはいり、初めて道三に挨拶をした。 会見が終わった後、道三は「されば無念ではあるが、わしの子供たちは、たわけの門外に馬をつなぐことになりそうだ(家臣になる)」と自分の後は信長に国を取られることを予想したという。
およそ、権力を握ることは比較的容易でも、従来の権威を乗り越えて新しい権威になることはよほど難しい。何故なら、権力は自力で勝ち取ることができるが、権威というものは周囲から認められて初めて生じるものであり、そのためには周囲が認めるあり方にならなくてはならない。ところが人々が認識しているそのあり方とは、つまり既存の権威そのものだから、既存の権威に合わせなければ新しい権威にもなれない、というジレンマが生じてしまう。既存の権威を容認してそれによる権威づけを図るのは簡単だが、それではいつまでたっても同じことの繰り返しであり、決して新しい権威、体制は生まれてこない。これが実権を失った朝廷や幕府が延々と生き延びた理由であり、父信秀をはじめ、京都に政権を作りながら体制を覆すことができなかった三好長慶など、すべての戦国大名がことごとく失敗してきた点である。 では、どうすればよいのか。「大うつけ」の振る舞いをすれば、既存の権威に従っていないことはわかっても、それだけではただの「大うつけ」「大たわけ」にすぎず、非常識なだけに過ぎない。それを示すためには、一度は権威を受容して、周囲に自分が実は権威がある人間であることを見せつけておかなくてはいけない。周囲がいったん権威として認めてくれれば、その権威を捨てて新たな権威になることも可能になってくる。 「できないからやらない」のと「できるけどやらない」、この差は限りなく大きい。道三との会見は、信長が権威を身にまとっていくうえで絶好の機会となった。そしてこの巧みな使い分けは、信長の生涯にわたって続いていくのである。 |