関ケ原の戦いへの経過
 ~伊達政宗と家康~
 


 家康大義名分を失う
徳川家康による上杉討伐は、家康の狙いとして、家康主導軍を公儀の軍隊にして上杉討伐を行うことであり、慶長5年6月16日に家康は大坂城を出陣した。しかし、約1か月後の7月17日に、長束正家・増田長盛・前田玄以が連署して、家康が秀吉の法度に背いた罪科13カ条を列記した「内府ちかひの条々」を諸大名に出したことにより、家康主導軍は公議の軍隊としての性格を失ってしまった。
そのため、上杉討伐を行う大義名分(政治的正当性)を失った家康は、上杉討伐を中止せざるを得ない状況に追い込まれたのである。つまり、軍事的な理由ではなく、政治的理由により上杉討伐を中止することになったわけで、その意味では「内府ちかひの条々」を出した石田・毛利連合軍の狙いは、家康主導軍の公儀性(上杉討伐の政治的正当性)を剥奪する点にあり、その目的は達成されたと考えられる。この点を考慮すると、7月25日の小山評定を待つまでもなく、上杉討伐の中止は当然であったと言える。小山評定は単なるセレモニーでしかなかった、ということになる。
7月29日付で家康が最上義光に対して、「上方奉行衆一同」と戦いになったので、会津への出陣を中止して「先々上洛」することにした、と報じている点は重要である。7月29日の時点で家康がこうした方針を表明した事は、公儀の軍隊としての性格を失った家康主導軍が7月下旬の時点から、対戦する対照を上杉景勝軍から、石田・毛利連合軍に変更したことを意味しており、この時点で上杉景勝軍に関する戦争の性格が本戦から支戦に変わる事になった。
 1か月間身動きができなかった家康
このように、家康を取り巻く状況を考えると、7月17日に「内府ちかひの条々」を出された時点以降、家康の政治的ダメージはかなり大きく、上杉討伐を中止せざるを得なかったという点で、家康の動向はかなり不安定なものであったことがわかる。
8月に入ると、8月1日に徳川方が守備していた伏見城が石田・毛利連合軍の攻撃により落城したため、家康を巡る状況は一層不安定になった。8月12日付で直江兼続は、上方の状況を聞いて伊達政宗の軍勢が白石方面の周辺から撤退したことや、最上義光に加勢して参陣していた南部利直などが撤退したことを報じているので、伏見城の落城が東北の大名の軍事動向にも影響し始めたことがわかる。
家康は小山評定のあと、8月5日に江戸城に帰り、9月1日に江戸城を出陣するまで、石田・毛利連合軍の有利な状況下、約1か月間は江戸城から身動きが取れなかったのである。
こうした点を考慮すると、7月17日に「内府ちかひの条々」を出されてから9月1日の江戸城出立までの約1か月半は家康にとって、戦況として最も不利な時期であったことがわかる。
この不利な状況を打開したのが、9月15日の関ケ原の戦いにおける家康主導軍の勝利であった。
 政宗のスタンスの変更
伊達政宗は、8月3日付で家康に対して、白河・会津へ出陣することを要請し、家康の出陣が延期された場合は「御凶事出来」になる、として同輩の武将に対するように強い態度で出ていた。
つまり、関ケ原の戦いにおける家康主導軍の勝利まで、伊達政宗は自分の考えで戦い、上方の状況を見極めながら動いていたのであって、家康に一貫して味方していたわけではなく、家康のために戦ったわけでもなかった。ところが、9月28日付で伊達政宗は家康次男の結城秀康に対して、最上義光へ援軍を派遣した事は、家康への「御首尾迄」にこのようにしているので、この事を上方の家康に取り次いでくれるように頼んでいる。伊達政宗は、関ケ原の戦いにおける家康主導軍の勝利後は、急速に家康寄りにスタンスを変えているのである。
8月1日の時点では、毛利輝元が大坂城にいて豊臣秀頼の後見として「天下之儀」について「御異見」する立場にあり、石田・毛利連合政権が成立していたと考えられるが、9月15日の関ケ原の戦いにおける家康主導軍の勝利により毛利輝元が失脚し、代わってそれまで公儀から排除されていた家康が天下の政治に直接関与し始めたことが上記の伊達政宗の政治的スタンスの変化(急速に家康寄りにスタンスを変えたこと)の背景にあったと考えられる。このことは、家康が「天下平均」を申し付けて大坂城に移ったので安心するように、と10月5日付で徳川秀忠が溝口秀勝に報じた点に如実に表れている。なお、9月15日の関ケ原の戦いでの勝利以前に、家康サイドの文書には「天下」という文言はみられなかった。




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