関ケ原の戦いへの経過 ~絶体絶命の家康~ |
伊達政宗が8月3日付で家康の側近である井伊直政・村越直吉に出した書状には、当時の家康の危機的状況が明確に記されている。その書状には、①大坂城に三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)が籠って秀頼へ御奉公をしているので、三奉行衆が秀頼に対して末々まで一途の御奉公を政宗は念願している。ただ余りに家康が世上を心安く思っているので、このような事態になったと思っている。このことは、御両人(井伊、村越)だけに述べることである。②上方の状況がこのようになったうえは、家康が上杉領内の白河・会津にへ火急に乱入すべきであり、万一それが延期されると、「御凶事」になるであろう。たとえ、上方の状況が「闇」になっても、家康が上杉景勝を討ち果たせば、上方の事も家康の思うようになるであろう。③大坂の地は肝要第一の城であるので、言うまでもないが、今からでも確かな衆を大坂へ遣わすべきではないのか。大坂には日本中の諸将の人質が皆いるので、石田三成、大谷吉継も大坂をどのようにしても確保して、人質を利用して日本中の大名衆を味方につける内意であると思われる。家康から三奉行に対して御言葉を加えられ、三奉行を諫めて家康が秀頼に対して御奉公をすべきである。政宗は世上の浮沈があっても、秀頼に対して御奉公をするつもりなので安心してほしい、と記されている。
そのため、政宗が上方の状況を「闇」と表現していることは、8月3日の時点で、家康が絶体絶命の危機的状況にあったことを明確に示している。つまり、家康にとって現状の打開は絶望的であったことを「闇」と表現しているのであろう。
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