関ケ原の戦いへの経過
 ~絶体絶命の家康~
 


 伊達政宗の書状でわかる家康の状況
8月1日、石田・毛利連合軍が家康の留守居将鳥居元忠が守る伏見城を攻撃して落城させ、西日本の諸大名の大規模な軍事動員に成功するなど8月の戦況は石田・毛利連合軍が圧倒的に有利であった。一方、「内府ちかひの条々」を出されたことにより公儀から排除された家康は、8月に入って危機的局面を打開できる政治的・軍事的目算もないまま追い詰められていた。
伊達政宗が8月3日付で家康の側近である井伊直政・村越直吉に出した書状には、当時の家康の危機的状況が明確に記されている。その書状には、①大坂城に三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)が籠って秀頼へ御奉公をしているので、三奉行衆が秀頼に対して末々まで一途の御奉公を政宗は念願している。ただ余りに家康が世上を心安く思っているので、このような事態になったと思っている。このことは、御両人(井伊、村越)だけに述べることである。②上方の状況がこのようになったうえは、家康が上杉領内の白河・会津にへ火急に乱入すべきであり、万一それが延期されると、「御凶事」になるであろう。たとえ、上方の状況が「闇」になっても、家康が上杉景勝を討ち果たせば、上方の事も家康の思うようになるであろう。③大坂の地は肝要第一の城であるので、言うまでもないが、今からでも確かな衆を大坂へ遣わすべきではないのか。大坂には日本中の諸将の人質が皆いるので、石田三成、大谷吉継も大坂をどのようにしても確保して、人質を利用して日本中の大名衆を味方につける内意であると思われる。家康から三奉行に対して御言葉を加えられ、三奉行を諫めて家康が秀頼に対して御奉公をすべきである。政宗は世上の浮沈があっても、秀頼に対して御奉公をするつもりなので安心してほしい、と記されている。
 三奉行の存在を認めていた政宗
この書状には、政宗が大坂の三奉行を非難する言葉がまったくない点が注目される。つまり、8月3日の時点で、政宗は三奉行が反家康の挙兵をして大坂城において秀頼を推戴し、秀頼に御奉公をしている政治状況を容認しているのである。っそして、家康の政治的見通しが甘かったため、大坂の奉行衆が機先を制して、このような事態(石田・毛利連合軍が反家康の挙兵に及んだ)になった、として家康を厳しくなじる様な書き方をしている。家康が上杉景勝を討ち果たせば、上方の状況も打開できる、と記していることは、政宗としては、当面家康にとって上方の状況(石田・毛利連合軍が反家康の挙兵に及んだ)は容易には打開できないものと認識していたことがわかる。
そのため、政宗が上方の状況を「闇」と表現していることは、8月3日の時点で、家康が絶体絶命の危機的状況にあったことを明確に示している。つまり、家康にとって現状の打開は絶望的であったことを「闇」と表現しているのであろう。
 家康に大坂方に従うように促す政宗
政宗が家康に対して、大坂へ確かな使者を派遣して三奉行を諫め、秀頼に対して家康が御奉公をすべきである、としていることは、大坂の奉行衆と戦うのではなく政治的妥協をして秀頼に従うように奨めたと理解できる。秀頼は石田・毛利連合政権が推戴しているので、つまりは家康の完全な政治的敗北を認めるように勧めたという意味になる。この書状において、政宗が家康に対して、大坂の奉行衆と軍事的対決をする事に全く触れていないことは、戦況としては石田・毛利連合軍が圧倒的に有利であり、この時点で戦いに挑んでも家康にはとても勝ち目がないと見ていたことを示すものであろう。




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