関ケ原の戦いへの経過
 ~石田・毛利連合軍優勢に~
 


 8月6日付書状時点での形勢
石田三成は、8月6日付で真田昌幸に対して、次のような内容の書状で現時点での情勢を伝えている。
①、越後は上杉景勝に与え、上方には欠国が多いので(現在越後国春日山城主の)堀秀治は、上方においてどこかの国を拝領させるつもりである。②、家康は、上杉景勝・佐竹義宜を敵に回して、僅か3万の人数で分国の15城を守備して、20日路で西上する事ができるのか、③、家康が分別のない諸大名の人数1万と(上杉討伐に従った)上方の諸大名の人数1万くらいを味方につけて西上しても、尾張・三河の間で討ち取るつもりである。④、よって、上杉景勝・佐竹義宜・真田昌幸などは関東へ乱入すべきである。
ここでは、上杉景勝をもともとの領国である越後国に移封する予定を披露するなど、早くも戦後の国替えを見据えていたことがわかる他、上方の欠国が多いということを、改易にした細川忠興の領国である丹後国が開くことを念頭にしていたと思われる点や、上杉景勝・佐竹義宜と石田・毛利連合軍が家康主導軍を挟撃する作戦の侵攻に自信を深めていたことがわかる。そして、家康主導軍との決戦地点を、尾張国・三河国あたりに想定していたこともわかる。
また、毛利輝元は8月15日付書状で、家康は上洛すると思われるので、一戦に及ぶ覚悟である、と報じている。
 決戦が近いという認識をもっていた
島津義弘は8月20日付の本田正親宛書状で、伏見城攻撃に参戦した後、大坂の奉行衆の下知を受けて、美濃国坂井に着陣したことを報じた。そして、この戦いは関東と京都の戦いなので、尾張と美濃の境を隔てて防戦することになるだろう、としたうえで、家康について東国へ下向した上方の諸大名の人数と井伊直政・榊原康政が東国の人数を率いて尾張国清須に到着した、と報告されたので、近々一戦に及ぶであろう、と述べている。さらに、島津義弘は8月21日付の吉田清孝宛書状では、現在美濃国樽井にいるが、敵との間は5~6里ほどなので、近日、防戦があると思い待っている旨を報じた。
このように8月中旬~下旬にかけては、家康主導軍の上洛に伴い、石田・毛利連合軍と家康主導軍の決戦が近いと認識されていたことがわかる。
こうした緊迫の中、8月には秀頼麾下において石田・毛利連合軍による西日本の諸大名の動員が次々に行われていた。8月19日の時点で、九州の諸大名は過半が在京していたほか、長宗我部盛親は2千人の軍役のところ、秀頼への忠節として5千人を召し連れ、立花宗茂は1千3百人の軍役のところ、4千人ほどを召し連れるなど、既定の軍役人数の2.5~3倍ほどの人数で出兵していた。また、秋月種長も軍役以上の人数を召し連れ、相良頼房も同様であった。
 緩慢な家康主導軍
このように、8月は石田・毛利連合軍にとって軍事作戦が順調に進行していたが、その一歩、家康主導軍の動きは鈍く、家康より先に西上した福島正則・池田輝政などの諸将が8月23日に石田・毛利連合軍側の岐阜城を攻撃させて陥落させたが、家康自身は江戸にいて軍事的動きをしていない。
8月末の状況として、保科正光は、①、大垣城に石田三成・宇喜多秀家・島津義弘・小西行長などが籠城していたが、そこに家康方の人数が来て、8月26日より付城を構築して攻撃した、②、大垣城の城中からは、毛利輝元に対して後詰をするように要請した、③、天下の勝負は大垣城に極まり、その攻防は30日の間と思われる。④、この後詰が来るより前に家康が着陣すると思われる、⑤、大垣城に籠っている人数は2万余であり、この小城にこれほどの人数が籠城するといっぱいになると思われる、と報じている。
このことからは、石田三成・宇喜多秀家等の主力諸将が大垣城に籠城はしたものの、2万人を収容するには大垣城の規模が小さかったことと、大垣城にこのまま籠城が続いたら、その攻防戦は30日くらい見込まれていたことがわかる。このように大垣城の規模が小さかったため、長期間籠城して戦うには不利と判断して、後に石田三成・宇喜多秀家らは大垣城から出て関ケ原に布陣したのかもしれない。




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