関ケ原の戦いへの経過 ~石田・毛利連合軍優勢に~ |
①、越後は上杉景勝に与え、上方には欠国が多いので(現在越後国春日山城主の)堀秀治は、上方においてどこかの国を拝領させるつもりである。②、家康は、上杉景勝・佐竹義宜を敵に回して、僅か3万の人数で分国の15城を守備して、20日路で西上する事ができるのか、③、家康が分別のない諸大名の人数1万と(上杉討伐に従った)上方の諸大名の人数1万くらいを味方につけて西上しても、尾張・三河の間で討ち取るつもりである。④、よって、上杉景勝・佐竹義宜・真田昌幸などは関東へ乱入すべきである。 ここでは、上杉景勝をもともとの領国である越後国に移封する予定を披露するなど、早くも戦後の国替えを見据えていたことがわかる他、上方の欠国が多いということを、改易にした細川忠興の領国である丹後国が開くことを念頭にしていたと思われる点や、上杉景勝・佐竹義宜と石田・毛利連合軍が家康主導軍を挟撃する作戦の侵攻に自信を深めていたことがわかる。そして、家康主導軍との決戦地点を、尾張国・三河国あたりに想定していたこともわかる。 また、毛利輝元は8月15日付書状で、家康は上洛すると思われるので、一戦に及ぶ覚悟である、と報じている。
このように8月中旬~下旬にかけては、家康主導軍の上洛に伴い、石田・毛利連合軍と家康主導軍の決戦が近いと認識されていたことがわかる。 こうした緊迫の中、8月には秀頼麾下において石田・毛利連合軍による西日本の諸大名の動員が次々に行われていた。8月19日の時点で、九州の諸大名は過半が在京していたほか、長宗我部盛親は2千人の軍役のところ、秀頼への忠節として5千人を召し連れ、立花宗茂は1千3百人の軍役のところ、4千人ほどを召し連れるなど、既定の軍役人数の2.5~3倍ほどの人数で出兵していた。また、秋月種長も軍役以上の人数を召し連れ、相良頼房も同様であった。
8月末の状況として、保科正光は、①、大垣城に石田三成・宇喜多秀家・島津義弘・小西行長などが籠城していたが、そこに家康方の人数が来て、8月26日より付城を構築して攻撃した、②、大垣城の城中からは、毛利輝元に対して後詰をするように要請した、③、天下の勝負は大垣城に極まり、その攻防は30日の間と思われる。④、この後詰が来るより前に家康が着陣すると思われる、⑤、大垣城に籠っている人数は2万余であり、この小城にこれほどの人数が籠城するといっぱいになると思われる、と報じている。 このことからは、石田三成・宇喜多秀家等の主力諸将が大垣城に籠城はしたものの、2万人を収容するには大垣城の規模が小さかったことと、大垣城にこのまま籠城が続いたら、その攻防戦は30日くらい見込まれていたことがわかる。このように大垣城の規模が小さかったため、長期間籠城して戦うには不利と判断して、後に石田三成・宇喜多秀家らは大垣城から出て関ケ原に布陣したのかもしれない。 |