関ケ原の戦いへの経過 ~石田・毛利軍挙兵の経緯~ |
石田・毛利連合軍の家康に対する非難は、慶長3年以来から、家康は「太閤様御置目」に背き動いているので、秀吉の「御置目」を立てるために、戦争状態になったとしている。よって、秀吉が死去した慶長3年以後、家康による政治の私物化が約2年も続いたということになり、家康に対する憤激は頂点に達していたのであろう。
この内容によれば、伏見城の包囲は7月19日から開始されたので、石田・毛利連合軍の挙兵(7月17日)の翌々日から包囲を開始した事がわかる。伏見城の落城は8月1日なので包囲を開始して12日後に落城したことになる。また、丹後の平定にも成功したので、8月上旬の時点では、畿内及びその周辺から家康に味方する勢力を排除してほぼ制圧に成功したことがわかる。さらに、尾張への出兵にも言及し、福島正則を味方につけた場合はさらに三河に侵攻し、味方につけることができなかった場合は、清須城を攻撃する予定であったことがわかる。 伏見城攻撃については、8月5日付の鍋島勝茂・毛利勝永宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状によれば、関東の凡下・野人の者共が伏見城の御座所を踏み荒らしたため、それぞれ城際まで押し詰め、即時に乗り崩した、としている。 |