関ケ原の戦いへの経過
 ~関ケ原は想定されていなかった~
 


 「内府ちかひの条々」の真の狙い
通説では、「内府ちかひの条々」については、石田三成などによる単なる挙兵宣言(家康への宣戦布告)程度にしか受け止められておらず、「内府ちかひの条々」の政治的効果について、余りに過小評価をしている傾向にある。
「内府ちかひの条々」が出されたことによる家康の政治的ダメージは計り知れないほど大きく、それまで公戦(上杉討伐)
を指揮する大将の立場から、政権中枢を離れて、政治的正統性のない家康は、単なる家康シンパの諸将を引き連れているだけの存在でしかなくなってしまったのである。
「内府ちかひの条々」が出されたことは、家康が豊臣政権から排除されたことを明確に示すものであった。その結果、家康は政治的には打つ手がなくなってしまい、小山評定のあと、8月5日に江戸城に帰ったものの、9月1日に江戸女王から出陣するまでの約1か月間は動くことができず、江戸城に1か月も引きこもらざるを得なかった。家康は政治的正統性のないままの状態で関ケ原の戦いに突っ込んでいったのであるが、もはや家康にはそれしか生き残る手段がなかったので、他に選択肢はなかったのである。
 孤立すらあり得た徳川
つまり、本来なら小山評定の後、家康はすぐに東下していた豊臣諸将とともに西上すべきであったが、豊臣系諸将の寝返りを恐れて早急に西上出来なかったのだろう。こうした苦境に陥った家康は、もはや一か八かの野戦の勝利に賭けるしか手段がなかったのである。大垣城などの攻城戦が長期化すると、豊臣秀頼が出馬してきた場合、豊臣系の諸将が寝返る可能性は十分あり、家康にとって野戦で短期間に勝利する必要があったのだ。
こういった状況を勘案すると、従来、通説で述べられているような、石田三成の挙兵を見越して東下し(つまり、三成の挙兵を誘うようにわざと上方を留守にした)、小山評定ですぐさま西上を決定して、余裕たっぷりに江戸城で戦略を練ってから家康は西上したという神君伝説めいた家康の勝つべくして勝ったようなイメージは、根本から崩れ去るだろう。
「内府ちかひの条々」が出されたことのもう一つの意味は、「内府ちかひの条々」が石田・毛利連合政権の政権樹立宣言と捉えることができる点である。家康を公儀から排除したと宣言した事は、同時に石田三成、毛利輝元などの反家康派が政権を掌握した事を諸大名に対して宣言したと捉えることもできる。
 関ケ原が戦場になるとは想定されていなかった
石田・毛利連合軍の戦略で注目される点は、早くも慶長5年7月26日の時点で、家康主導軍が東国から西上することを想定していたことで、それを近江国内の瀬田・守山の間に展開する毛利輝元の軍勢2万余で迎撃する構想を立てていたことである。さらに、宇喜多秀家、小早川秀秋も山城国内の醍醐・山科、近江国内の大津に続けて陣取りしている状況を報じており、毛利・宇喜多・小早川の軍事力が家康主導軍を迎撃する主力戦力であったことがわかる。
さらに、8月6日の時点では、尾張・三河の間で家康主導軍を討ち取る想定を石田三成は記しているので、この段階でも、西上する家康主導軍を迎撃する構想は変わっていなかったことがわかる。このように、7月下旬の段階よりも迎撃する想定ラインが、より東方になったことは、石田・毛利連合軍の戦略の実施が順調に進んでいたことを示すものといえる。
そして、この時点では関ケ原は主戦場としてまったく想定されていなかった。現代の感覚では、関ケ原で両軍が激突することがあらかじめ決まっていたかのような錯覚を持つかもしれないが、それはあくまでも結果論であり、家康主導軍が東国から西上する場合の石田・毛利連合軍の迎撃想定ラインは、8月上旬の時点では尾張・三河の間に置かれていたのである。




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