関ケ原の戦いへの経過 ~小山評定~ |
石田三成の決起に毛利輝元が加わったという事は、具体的には7月17日に毛利輝元が大坂城に入城した事を指すと考えられ、同日(7月17日)に「内府ちかひの条々」が出されたことを考慮すると、「内府ちかひの条々」が出されたことも家康は承知したうえで小山評定が行われたと理解すべきであろう。
しかし、この家康書状では「大坂奉行衆」と記していて、「三奉行」と記されているわけではなく、三奉行の個別の名前を記しているわけでもないので、「大坂奉行衆」=「三奉行」と限定して考える必要はなく、石田三成も含めて「大坂奉行衆」と記していると考えても矛盾はない。 光成準治氏は、8月1日付の吉川氏家臣・下二助書状の内容分析をもとに、黒田長政が小山から反転西上した日付を7月21に前後と推測しているので、この推測が正しければ、長政は小山評定に参加せず西上したことになり、その意味で、家康は改めて相談したいと記したのではないだろうか。
この有名な話は、幕府が編纂した徳川家の正史である「徳川実記」」に記されているが、こうした劇的な展開が本当にあったのかどうかは、史料批判の必要があると思われる。 「徳川実記」は江戸時代後期(文化6年 1809起稿 嘉永2年 1849完成)の編纂史料であり、「徳川実記」が家康の政治行動・軍事行動を正当化する歴史観に基づいて書かれていたことを考慮すると、家康が東下した豊臣系諸将から以下に信望が厚かったかを演出するエピソードとして出来過ぎた話という印象が強い。 また、「徳川実記」では、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、池田輝政などの諸将が小山評定に参加したとしているが、黒田長政については前述の通り、小山評定に参加していなかった可能性が指摘されており、諸将の小山評定への参加の有無を確定させる必要が出てくる。 |