関ケ原の戦いへの経過
 ~小山評定~
 


 「内府ちかひの条々」は届いていたのか?
通説では、小山評定が行われた7月25日の時点では、「内府ちかひの条々」は家康の元には届いておらず、石田三成と大谷吉継たちのみによる反家康挙兵という認識であった、とされている。しかし、光成準治氏が指摘するように、7月21日付の細川忠興書状には、石田三成の決起に毛利輝元が加わったという注進が家康のところへなされた、と記されているので、小山評定の時点で家康は、三成の決起に輝元も加わったことを知っていたことになる。
石田三成の決起に毛利輝元が加わったという事は、具体的には7月17日に毛利輝元が大坂城に入城した事を指すと考えられ、同日(7月17日)に「内府ちかひの条々」が出されたことを考慮すると、「内府ちかひの条々」が出されたことも家康は承知したうえで小山評定が行われたと理解すべきであろう。
 黒田長政はすでにいなかった?
通説では、7月29日付の黒田長政宛の家康書状に、長政が西上した後、「大坂奉行衆別心の由」という報告を家康が受けたので改めて相談したいが、すでに長政は西上してしまっているのでそれもできない、と記されていることを根拠として、家康が三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)参画の情報を知ったのは7月29日頃としている。
しかし、この家康書状では「大坂奉行衆」と記していて、「三奉行」と記されているわけではなく、三奉行の個別の名前を記しているわけでもないので、「大坂奉行衆」=「三奉行」と限定して考える必要はなく、石田三成も含めて「大坂奉行衆」と記していると考えても矛盾はない。
光成準治氏は、8月1日付の吉川氏家臣・下二助書状の内容分析をもとに、黒田長政が小山から反転西上した日付を7月21に前後と推測しているので、この推測が正しければ、長政は小山評定に参加せず西上したことになり、その意味で、家康は改めて相談したいと記したのではないだろうか。
 「徳川実記」の虚実
小山評定について、通説では上杉討伐を中止して、石田三成などの挙兵に対応するため東下していた豊臣系諸将が西上することが決定したが、その際、福島正則が率先して家康支持を表明する発言をしたことが、東下していた他の豊臣系諸将の家康支持を取り付けるうえで大きな役割を果たしたと説明されてきた。
この有名な話は、幕府が編纂した徳川家の正史である「徳川実記」」に記されているが、こうした劇的な展開が本当にあったのかどうかは、史料批判の必要があると思われる。
「徳川実記」は江戸時代後期(文化6年 1809起稿 嘉永2年 1849完成)の編纂史料であり、「徳川実記」が家康の政治行動・軍事行動を正当化する歴史観に基づいて書かれていたことを考慮すると、家康が東下した豊臣系諸将から以下に信望が厚かったかを演出するエピソードとして出来過ぎた話という印象が強い。
また、「徳川実記」では、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、池田輝政などの諸将が小山評定に参加したとしているが、黒田長政については前述の通り、小山評定に参加していなかった可能性が指摘されており、諸将の小山評定への参加の有無を確定させる必要が出てくる。




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