関ケ原の戦いへの経過
 ~内府ちかひの条々~
 


 上杉討伐は家康によるクーデター!?
関ケ原の戦いの構図は、石田・毛利連合軍VS家康主導軍であるが、この両者の対立を政治的に見た場合、以下のような指摘ができる。
まず、家康は慶長5年(1600)6月16日に上杉景勝が上洛要請に応じないとの理由で、諸将を引き連れて大坂城から出陣して上杉討伐に向かうが、これは公戦の形に偽装した家康による豊臣政権内部でのクーデターといえる。公戦の形にしないと上杉氏を討伐する十分な兵力が確保できなかったという理由もあるだろう。何故なら、家康はこの時点で自らが強引に軍事行動を起こして五大老による集団指導体制に亀裂を入れなければ、いつまでも豊臣政権の大老として秀頼を補佐する立場に留まらざるを得ず、やがて秀頼が成人すれば、政権内での政治的地位が低下することは明らかであったからである。
 大坂三奉行の弾劾状
公戦の形に偽装した家康の目論見はうまくいくかに見えたが、家康の大坂出陣から1か月後の7月17日に、大坂の三奉行長束正家・増田長盛・前田玄以が、「内府ちかひの条々」十三カ条を諸大名に出して、家康を政治的に弾劾したことにより失敗してしまった。そして、同日に毛利輝元が大坂城西の丸に入城して、家康の留守居であった佐野綱正を放逐し、子の毛利秀就を本丸に置いて豊臣秀頼に近侍させたことも重大な意味を持っていた。
「内府ちかひの条々」十三カ条の内容は、①五大老・五奉行の誓紙連判から幾程もないのに二人(石田三成・浅野長政)を追い込めたこと、②前田利長は誓詞を遣わしているのに、上杉景勝討伐の為人質を取り、追い込めたこと、③上杉景勝は何の咎もないのに「誓紙之筈」を違え、または、太閤様(秀吉)の御置目にも背き、この度(家康が上杉景勝を)討ち果たすことを嘆かわしく思い、種々様々その道理を説いたが、遂に許容することなく。上杉景勝討伐のために出馬したこと、④知行方のことは、自分に召し置くことは言うには及ばず、取次をしてもいけないという「上巻誓紙之筈」を違えて、忠節もない者共に知行を出したこと、⑤伏見城に太閤様が置いた留守居共を追い出し、私に人数を入れ置いたこと、など、家康の政治的罪状(秀吉が出した置目に違反して政治を私物化しているということ)十三カ条を列挙したものである。
この中で、上記③の上杉討伐に関して、家康が勝手に強行したものである、と非難した点は、家康の上杉討伐が公戦である事を完全に否定した、という点において決定的な意味を持っていた。
 家康の公儀性剥奪
このように「内府ちかひの条々」が大坂の奉行衆によって出された結果、家康による上杉討伐の政治的正当性は消滅し、家康の公儀性ははく奪されてしまった。このため、上杉討伐は公戦としての名目を失ってしまい、公儀性を剥奪された家康主導軍に、公戦としての上杉討伐をする資格はなくなり、7月25日の小山評定の結果を待つまでもなく、「内府ちかひの条々」が出された同月17日の時点で、上杉討伐は中止せざるを得なくなったのである。




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