従来、関ケ原の戦いは、予定調和的に家康が勝つべくして当然のように勝利した、というようなモチーフで説明されることが多く、関ケ原の戦いは、これまで江戸幕府成立への一通過点としての理解しかされてこなかったが、このような徳川史観的見解(幕府による後付けの歴史観、或いは、神君家康が天下を取ることは最初から決められていたかの如き歴史観)には再検討の余地がある。よって、こうした歴史観を排除して両陣営の動向を平等に冷静に再検討する必要がある。
まず、両軍の挙兵の根拠を見てみると、石田・毛利連合軍は、慶長5年7月17日の時点で、家康の上杉討伐について「上巻之誓○」及び「太閤様御置目」に背いて「秀頼様」を見捨てて出馬したと非難している。(慶長5年7月17日付中川秀成宛前田玄以・増田長盛・長束正家連判状)このことは、家康の上杉征伐は、豊臣政権の後継者である秀頼の承認を得た公戦ではなく、家康の恣意的企みによる正当性のない私戦であると断罪していることになる。
これに対して、石田・毛利連合軍に距離を置く加藤清正は、9月15日の時点で、石田・毛利連合軍の働きを、「秀頼様御幼少」であり、「太閤様御置目」に背いて家康に、「別心仕衆」であるとし、「太閤様御遺言」を背き、「秀頼様」へ「御奉公」するために、家康へ「御一味」っする、と記している。(慶長5年9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文)ここでは、家康に「別心」を抱かず、「御一味」することが秀頼への「御奉公」になる、という理屈を述べている。この場合、家康への謀反とするのではなく、「別心」としている点に、当時の家康が置かれていた立場(石田・毛利連合政権により公儀から排除された立場)を示しているとみることもできよう。
ここで注意されるのは、両陣営とも「太閤様御置目」を持ち出して、互いに相手が「太閤様御置目」に背いたとして非難している点である。秀吉はすでに死去しているので、どのようにでも解釈できるのであって、その上後継者である秀頼が幼少である事から、政治手結指針を示すことができない状況下にあって、両陣営ともに秀頼の為に、と標榜しているので、それぞれの立場の正統性を主張することの政治的根拠は大差がないということになる。つまり、挙兵の建前は同じでありながらも、政治的・軍事的には対立するという奇妙な状況が現出していたのである。これは、建前の後ろに隠された、それぞれの本音が政治的・軍事的行動に直結していたからであって、本音では対立する相手陣営を叩き潰す方策を画策・実施しようとしていたのである。 |