関ケ原の戦いへの経過 ~惣無事令体制崩壊~ |
惣無事令とは何か。それは豊臣秀吉が天下統一の過程において、戦国大名間の戦いを私戦として禁止し、これに違反した大名は討伐の対象となった、豊臣政権の政策基調になったものである。(藤木久志氏提唱)具体的には、天正15年(1587)の島津氏に向けての九州征討や同18年の後北条氏に向けての小田原攻めは惣無事令違反という名目のもとに行われた。(藤木久志氏「豊臣平和令と戦国社会」) 惣無事令の「無事」とは「有事」に対する概念であり、戦争が行われない平和な状態を指すのであり、この平和な状態は、関白である豊臣秀吉の圧倒的な武力を背景にして上から強圧的に諸大名に対して平和な状態を強制するものであった。つまり、戦国時代のように大名同士が交戦することを、秀吉は「私戦」とみなして禁止し、それに従わなかった場合は、島津氏や後北条氏のように、秀吉による公儀の軍事力によって討伐されたのである。つまり、惣無事令は諸大名に対して秀吉が私戦を禁止した、という点がポイントであるから、惣無事令を理解する上で「私戦の禁止」が重要なキーワードになっていることがわかる。
このことから、関ケ原の戦いに関係する一連の経過の歴史的意義は、私戦が公然と復活した点にある事が明確になった。石田・毛利連合軍の戦いも家康主導軍の戦いも、公戦の形を取っているが、その本質は敵対する派閥の軍事力を相互に叩きのめす事を目的にした私戦であった。そして、この抗争はそもそも豊臣政権内部の権力闘争に端を発しているので、相互の遺恨は根深く、軍事衝突をして私戦を繰り広げる以上、相手陣営の首謀者を最終的に抹殺しなければ抗争の集結はあり得なかったのである。
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