関ケ原の戦いへの経過
 ~惣無事令体制崩壊~
 


 惣無事令とは
関ケ原の本戦(慶長5年9月15日)終了後も、加藤清正が宇土城、八代城を攻撃したり、伊達政宗が福島城を攻撃したりしているのは、家康のためなどではなく、それぞれの支配圏の拡大を図ったものであり、まさに領土の拡大は切り取り次第という戦国時代の論理である事から、豊臣秀吉が惣無事令の名で禁止したはずの私戦が公然と復活したことを意味していた。この時点で、豊臣政権の後継者ではあっても、幼少の秀頼は今だ関白には任官しておらず、なおかつ惣無事令を執行させるカリスマ性はなく、年齢的にも強力な軍事指揮権の発動はできなかった。
惣無事令とは何か。それは豊臣秀吉が天下統一の過程において、戦国大名間の戦いを私戦として禁止し、これに違反した大名は討伐の対象となった、豊臣政権の政策基調になったものである。(藤木久志氏提唱)具体的には、天正15年(1587)の島津氏に向けての九州征討や同18年の後北条氏に向けての小田原攻めは惣無事令違反という名目のもとに行われた。(藤木久志氏「豊臣平和令と戦国社会」)
惣無事令の「無事」とは「有事」に対する概念であり、戦争が行われない平和な状態を指すのであり、この平和な状態は、関白である豊臣秀吉の圧倒的な武力を背景にして上から強圧的に諸大名に対して平和な状態を強制するものであった。つまり、戦国時代のように大名同士が交戦することを、秀吉は「私戦」とみなして禁止し、それに従わなかった場合は、島津氏や後北条氏のように、秀吉による公儀の軍事力によって討伐されたのである。つまり、惣無事令は諸大名に対して秀吉が私戦を禁止した、という点がポイントであるから、惣無事令を理解する上で「私戦の禁止」が重要なキーワードになっていることがわかる。
 「私戦」の復活
このように、秀吉の惣無事令によって大名間の私戦は禁止・凍結されたものの、慶長3年(1598)の秀吉の死去の後、同5年の日本国内での長期化した争乱状態の中で、公然と私戦が復活したのである。こうした惣無事令体制の崩壊による公然たる私戦の復活に、慶長5年の関ケ原の戦い前後の期間における日本国内の争乱状態の歴史的意義を見出すべきである。つまり、「私戦の復活」をキーワードに読み解いていく必要があると考えられる。
このことから、関ケ原の戦いに関係する一連の経過の歴史的意義は、私戦が公然と復活した点にある事が明確になった。石田・毛利連合軍の戦いも家康主導軍の戦いも、公戦の形を取っているが、その本質は敵対する派閥の軍事力を相互に叩きのめす事を目的にした私戦であった。そして、この抗争はそもそも豊臣政権内部の権力闘争に端を発しているので、相互の遺恨は根深く、軍事衝突をして私戦を繰り広げる以上、相手陣営の首謀者を最終的に抹殺しなければ抗争の集結はあり得なかったのである。
 豊臣政権の枠組みが崩壊
慶長5年の時点では、秀吉の出した惣無事令が機能せず、惣無事令の原則を全く無視して軍事行動が行われたのであって、私戦が公然と復活した時点(関ケ原の戦いに関する一連の経過の勃発の時点)で、惣無事令をベース(基調)とした豊臣政権の枠組みは崩壊したとみなされる。その意味では、豊臣秀頼の豊臣公儀の主宰者としての性格は、関ケ原の戦い以降も継続するものの、政権の枠組みとしては、必然的に新たな将軍型公儀の登場へとつながるのである。言い換えれば、惣無事令の執行は秀吉の存在と直結したものであって、秀吉死去後は惣無事令の執行ができなくなった、とみなすことができる。




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