関ケ原の戦いへの経過 ~戦国時代の論理の復活~ |
6月16日 家康が上杉家討伐の為大坂城を出陣する 7月17日 毛利輝元が大坂城西の丸に入城する 同日 長束正家・増田長盛・前田玄以が家康の罪科十三カ条(内府ちかひの条々)を挙げて、これを諸大名に告げる。 (事実上の石田三成の挙兵宣言) 7月19日 石田・毛利連合軍が伏見城(守将は家康の家臣鳥居元忠)を攻撃する。 7月25日 小山評定により上杉討伐の中止と上方の石田・毛利方と戦うことを決定し、その後、家康に味方する諸将が西上する。(家康が下野国小山に着陣したのは7月24日) 8月5日 家康が江戸城に帰る 8月10日 石田三成が美濃大垣城に入城する 8月23日 福島正則・池田輝政などの家康方の諸将が美濃岐阜城を攻撃して落城させる。 9月1日 家康が江戸城を発して西上する。 9月10日 家康が尾張熱田に到着する。 9月11日 家康が尾張清須城に入城する 9月13日 家康が美濃岐阜に到着する。 9月14日 家康が美濃赤坂に到着し、諸将と軍略を合議する。 9月15日 関ケ原の戦い この時系列の流れで見ると、石田・毛利連合軍と家康主導軍の敵対状態は7月17日にスタートして、9月15日の関ケ原の戦いによって決着がついたことがわかる。この約2か月間が、石田・毛利連合軍と家康主導軍の激しい軍事抗争の時期であると位置づけられる。 こうした一連の両軍に関する軍事抗争の時期について、関ケ原の戦いに至るまでの経過を全体的に俯瞰すると、戦い全体を本戦と支戦に分けることができる。この場合、本戦とは両主力軍の軍事行動に関する戦いであり、関ケ原の戦いで本戦は最終決戦として帰結した。一方、上杉景勝が当初、家康との対戦姿勢をとっていたものの、家康による上杉討伐の中止により、景勝が伊達政宗・最上義光との対戦に切り替えた事例は、本戦から支戦へと性格を変えた事例であり、黒田如水・加藤清正が九州において反家康方の諸城を攻撃した事例も、支戦に当たる事例である。
例えば、黒田如水は、藤堂高虎に出した慶長5年9月16日付の書状で、①加藤清正と黒田如水が今回の切り取った分を、家康の取り成しによって豊臣秀頼より拝領したい、②黒田長政には上方にて知行を貰い、黒田如水とは別家にしてほしい、という点を藤堂高虎に対して家康への取り成しを頼んでいる。このことを考慮すると、如水は家康の為ではなく、自分の所領拡大の為に九州で軍事行動を行ったことは明らかである。 黒田如水のこの申し出が仮に実現したとすると、如水は九州でさらに加増されて大名領国を拡大形成し、上方では息子の長政が如水からは独立して別個に大名領国を形成することになる。逆に言えば、こうした軍事行動を行わなければ、如水が思っている新たな領国の形勢などはもともと無理であったということになる。つまり、ここで注意しなくてはならないのは、戦いによって切り取った部分は自己の所領になると黒田如水が認識していた点であり、まさに領土は切り取り次第という戦国時代の論理が復活したという点である。
ちなみにこの時点では、清正は肥後半国の領主であるから、石田・毛利連合軍についた小西行長の所領である肥後半国と、同じく石田・毛利連合軍についた立花宗茂の所領がある筑後柳川が、今回の軍事行動の結果、新たに自己の所領として拝領できるという目算を立てていたのだろう。 また、伊達政宗は、慶長5年10月19日付で家康の側近の茶人である今井宗薫に宛てて、上方で20万石か15万石ほどの堪忍分を申し受けたいと記している。政宗がこうした露骨で法外な要求をこの時期にしていることは、来春に家康が行う予定の上杉討伐を控えて、家康の足元を見透かした政宗の本心が垣間見えるものといえよう。これは、伊達政宗の東北における軍事行動の実績を背景にして、家康に対しこうした強引な要求ができるわけであり、伊達政宗の軍事行動は純粋に家康の為を思って行ったわけではなく、自己の所領の拡大が念頭にあったことは明白である。 |