関ケ原の戦いへの経過
 ~東軍西軍?~
 


 東軍・西軍という区分
通説では、関ケ原の戦いにおける両陣営を東軍・西軍として区分しており、現代でもその呼称を使うことが多いが、慶長5年当時からこのように言われていたわけがない。こうした分け方はあくまでも便宜上のものでしかなく、ナンセンスであるという事に加え、東軍(=勝ち組)、西軍(=負け組)という従来の参加大名の区分は、これまで関ケ原の戦いの図式を非常に単純なものに収斂させてしまっている。権力闘争の本質を見極めるためには、石田三成・毛利輝元連合軍vs徳川家康主導軍、という区分の方が妥当であり、アンチ家康軍(豊臣政権護持派)vs家康シンパ軍(徳川家康推戴派)という見方もできる。(なお、前田利家在世の頃は、前田利家シンパ軍も多数あった)
東軍・西軍という区分は古くからおこなわれており、近代の研究誌におけるそのルーツは明治26年(1893)に発行された参謀本部編纂「日本戦史・関原役」に源流を持つようである。明治時代になって陸軍参謀本部として正式な戦史研究を目的として編纂されたようである。
この「日本戦史・関原役」には、「第三編 両軍計画及措置」として「第一章 西軍」の記載が、「第二章 東軍」の記載があり、日本陸軍の参謀本部が純粋な戦史研究として戦況分析をする場合、東軍・西軍という区分がわかりやすくて便利だったのだろう。
しかし、慶長五年における諸大名の動向を考えた場合、この東西両軍への区分は、歴史学的にはあまり意味のあるものではない。東軍・西軍というように全国の諸大名の隅々にまで末端の大名まで含めてすべて意思統一された二つの軍集団が編成されたという理解は間違っており、諸大名はそれぞれの思惑で動いていたに過ぎない。つまり、東軍・西軍という二つの軍集団が整然と編成されて両軍が日本全国で戦ったというのは幻想に過ぎない。
 石田三成・毛利輝元連合軍
vs
徳川家康主導軍
石田三成・毛利輝元連合軍と徳川家康主導軍という区分で同時代の史料に即してみると、次のようになる。
加藤清正は、関ケ原合戦後の9月24日の時点で「天下之様子」は「関ケ原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので、毛利輝元は大坂城にいて関ケ原の戦場には赴いていないにもかかわらず「輝元方敗戦」としているのは、毛利輝元が石田・毛利連合軍のトップであり、首謀者であったとみなしていることを示している。
黒田如水は、島津義弘・立花宗茂を「奉行方之者」と表記しており、石田三成を筆頭とする四奉行が中心になっていたことを如実に示しており、それに毛利輝元・宇喜多秀家・小西行長らが加わった軍集団とみなすことができる。この場合、四奉行は兵力数の上で大きな役割を担ったというよりは、豊臣政権の中心人物としてこの挙兵の政治的正当性を主張する上で必要不可欠なメンバーだったといえよう。
中川秀成は、「内府様(家康)」と対比する形で「奉行衆又輝元」と表記しているので、家康と対立する勢力について、石田三成をはじめとする奉行衆と毛利輝元の連合軍とみなしていたことがわかる。
こうした同時代史料における表記は、石田・毛利連合軍vs徳川家康主導軍という区分が妥当であることを示すものである。
慶長5年に起こった関ケ原の戦いについては、その戦いにおける同年の動向を考慮すると、日本史上、古代の壬申の乱(672年)、近代の戊辰戦争(1868~69)と同様に、武力を背景として国論を二分した大規模戦争・大規模権力闘争であるということができる。そして、9月15日に行われた関ケ原の戦い本戦の勝敗結果が重要なのではなく、6月16日に家康が上杉討伐のため大坂城を出陣してから、関ケ原本戦を経て、各地(東北や九州)での戦いが終息する11月頃までの争乱状態が約5か月間の長期にわたって続いた点にこそ、その歴史的意義を見出さなければならないのである。




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