関ケ原の戦いへの経過
 ~従来の見解と新見解~
 


 従来の見解
① 関ケ原の戦いにおける両陣営を東軍と西軍に区分して理解してきた。これまでの通説では、この区分には何の疑問も提示されてこなかった。
② 石田三成など、反徳川家康陣営が挙兵時に出した家康弾劾状である「
内府ちかひの条々」は、これまでの通説では、それほど重大な意味として受け取られていない。石田三成らの家康に対する悪あがき程度の意味しかなく、政治的効果は不発であった、と理解されてきた。
③ 家康は上杉討伐を中止した後、8月いっぱい居城である
江戸城でゆっくりと長期的戦略を立て、諸大名の動向を見極めて、勝算を十分に立ててから西上し、関ケ原の戦いに出陣した。
 新解釈
① 従来区分されている東軍と西軍というのは、その内実を見ると本来意思統一された軍集団ではなく、その意味では従来の東軍・西軍という区分は不適切である。その本質は、石田三成・毛利輝元連合軍vs徳川家康主導軍であり、日和見的行動をとった大名も多かった。よって、日本全国の大名を東軍と西軍に二分して区分することはナンセンスである。なお、秀吉死直後は上記2つの派閥に加え、前田利家主導軍が存在し得た可能性が高い。
② 家康弾劾状である
「内府ちかひの条々」は、上杉討伐に向けて軍事行動をとっていた家康の公儀性、つまり上杉討伐の政治的正当性をはく奪することを目的としており、その効果は非常に大きなものであった。その結果、家康の上杉討伐は政治的・軍事的正当性を失い、中止に追い込まれた。その意味では、家康が上杉討伐の中止を決定したこととして有名な小山評定は単なるセレモニーに過ぎず、それ以前に上杉討伐を中止にせざるを得なかったのである。
③ 8月は石田・毛利連合軍が家康の留守将が守る伏見城を落城させるなど有利に戦いを進める中、打つ手がなく、追い詰められた家康は8月いっぱいは江戸城に引き籠らざるを得なかった。そして和戦両様を考えた末、8月下旬の福島正則らによる岐阜城攻略を受けて、ようやく野戦で一発勝負をつけるべく、江戸城から出陣して西上した。つまり、
8月の家康は絶体絶命の危機的状況にあった。その意味では、石田三成の軍事戦略が功を奏したといえよう。




TOPページへ BACKします