政友会の脱党騒ぎは、伊藤の総裁辞任によって倍加した。伊藤が総裁であるからこそ入党した者も多く、今までに見た伊藤の総裁としての実力の限界は覆われて、その世間的な声望は依然として絶大なものがあった。そもそも伊藤の政友会結成の意図は、政府が国是を実行するのを援助するためのものであった。だから、二大政党の交代・責任内閣制による近代的な政党政治を意図したものではなく、その点は原とて同じ政友会のみによる政党政治論であった。しかし政友会の実体は、藩閥政府への対抗を色濃く示し、その限りにおいて伊藤の地位は浮き上がらざるを得なかった。桂は、伊藤の辞任によって政友会が四分五裂するだろうと予測したが、代議士は175名中46名を失ったとはいえ、残った者は政府の奸計に対し、結束して戦おうとするものが多かった。また旧自由党の名士が多く脱党した事は、西園寺総裁下の原―松田体制を強化し、いよいよ原が縦横に活躍する舞台が開けてきたともいえる。
原は伊藤の枢府議長就任を、「上は天皇を欺き下は国家を私有する、憲政上憂ふべきもの」と観測した。また、西園寺は「政党に資金を供給する余裕もなく、病躯ゆえ、尽力はするが、その辺はよろしく」というわけで、原は当面の折衝いっさいを引き受けねばならなかった。
桂と西園寺が政権を交互に担当した明治末年の十数年間は、一般に「桂園時代」と呼ばれる。ともに「第二流」の代表であるが、性格は対照的であった。桂は「成りあがり者のやり手」である。政治と女が飯より好きで、例の「ニコポン主義」とあの手この手の駆け引きで政権を維持し、声望と地位の向上を目指す権力亡者で、俗物根性が強い。これに反して西園寺は「聡明で上品な公卿」である。万事に鷹揚恬淡な風流人で、政権を執拗に維持子しようする粘り気がなく、嫌気が刺せばさっさと辞めてしまう。当時は華族の地位は絶大であったから、党内でも神格化されていた。なお、フランス仕込みの自由思想は、世間に清新さを感じさせた。
これを補佐する松田は民権運動の名士で温厚の長者、原は冷徹な腕の人である。松田の徳望と原の辣腕が補い合って政友会を支えている―こういった世評にもかかわらず、大策士桂を向こうに回すとすれば、西園寺でも58歳の松田でもなく、47歳の原こそはまり役であった。不十分ではあったが、西園寺や原は、政党政治に関しては伊藤より進んだ考えを持っている。だから政友会は原を中心に新生への道を歩む。それは絶対主義色の強い政党からブロジョア政党への脱皮であり、新生直後の7月18日に原が「憲政の発達は疑いなく、われわれの主張はしだいに実行される」と演説したように、藩閥官僚政治から政党政治への移行は、時代の大勢であった。原はその大勢を見通して、その怪腕をふるうこととなる。あたかもこのころ、憲政本党は政友会に接近を策し、年末には藩閥の倒れるまで提携する事を約した。
政憲提携で次の議会は波乱が予想された。ところが、意外にも「奉答文事件」が起こり、議会は12月11日に解散され、翌1904年3月1日が総選挙日とされ、その間2月10日に日露戦争が始まった。この事件は、議会開院式のさいの勅語に対して関係者が奉答文を作り、議長が読み上げるのを、この議会では議長の河野広中が別に自作の内閣弾劾文を用意し、それを読み上げたというのである。議員は恒例の行事だから対して気にしなかったが、後でわかって大騒動となった。取り消し運動も起こったが、政友会は一事不再議で反対し、河野が奉答文を天皇に差し出そうとするに及んで議会は解散された。当時は対露開戦熱が高まり、政府の態度は優柔不断であるとか、伊藤は恐露病だとかいわれていたので、すでに政治生命を失った、かつての福島事件の英雄は、世論の拍手を得ようとしてかかる愚挙にでたものであろうが、桂はこれで労せずして議会の繁雑をのがれ、戦争に努力を集中した。
日露開戦前、桂は原の意向を暗に打診した。原は、政友会は外交は当局に一任する態度であるが、政府が政党切り崩しに奔走するなら別である、と釘を刺している。また1904年1月末の井上との会談では、平和を望むが不可能なら早く開戦すべく、元老総出の挙国一致内閣が望ましいと語っている。しかし元老内閣の望みはなかった。元老たちは桂を責任の地位につかせ、これを指導・援助する方が気楽で優越感も味わえたはずである。原の日記では、国民も実業家も内実は戦争を望まぬし、七博士の建言も対露同志会の強硬論も政府の御膳立てだと観測していることが注目される。開戦とともに、政争はピタリとやんだ。
開戦20日後、3月1日の総選挙で政友会は同調者も含めて145人と、解散時より20数名を増した。議会は戦争協力、「近来戦争の外政界誠に無事」であり、政友会は原と松田が切り回していたが、反幹部派もあるので5月末日に両人は総務委員を辞任した。大岡育造・元田肇・杉田定一・久我通久・長谷場純孝の5人が辞任したが、その力量は到底両人の比ではなかった。
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