武田復姓 桶狭間合戦の影響 |
既に今川氏においては、義元が隠居し、氏真が家督を継いでいた。しかし実権は義元にあった為、信玄は、今川氏との外交担当取次穴山信友に、氏真と同盟関係維持の交渉をするように指示した。それと同時に、敗戦後も奮戦し、義元の首級を受け取ってから帰国した今川氏家臣岡部元信に書状を送ったのだ。そこでは元信の奮戦を称えるとともに、自分の事を氏真に讒言するものがいたら取り成してほしいと頼んでいる。 このことは、今川家中に信玄に対して何らかの不信感が存在していることを示唆する。その原因は、かなり複雑なようだ。
したがって遠山氏は、信秀嫡男信長とも友好関係にあり、武田・織田氏に「両属」することとなった。大名領国周辺部の国衆は、両属という形で自領の存続を目指すことはよくあり、信玄も了承したものであった。 ただ岩村遠山氏は、織田氏寄りの行動をとる事が多く、三河に出兵して今川氏に敵対する軍事行動も少なくなかった。一方で信玄は、遠山領に武田勢を駐屯させていた。美濃斎藤氏と対立する遠山氏を軍事的に保護するためで、これこそ遠山氏が求めたものである。 問題は織田信長が美濃攻めを繰り返していることで、駐留する武田勢が、織田勢と偶発的に衝突する危険性をはらんでいた。信玄は北信濃川中島を巡って、上杉謙信と争っていたから、東美濃での戦争は避けたい。 そこで、信長との友好関係樹立を選んだのである。永禄元年11月23日付織田信長書状は、大島城代兼下伊那郡司の秋山虎繁に宛てたもので、陣中見舞いへの礼を述べ、大鷹を送ってほしいと所望している。早くも武田・織田間で友好関係が築かれていることがわかる。今川氏の疑念を招きかねない行為だが、信玄は直面する問題を一つ一つ解決することに必死であったのだ。
しかし、永禄6年(1563)12月、遠江国衆で引間城主飯尾連龍が謀反し、遠州一帯が内乱状態に陥った事で事態は一変する。当時の対今川氏外交は、穴山信友が死去し、嫡男信君が引き継いでいた。 上野出陣中であった信玄は、急報に接すると、駿府滞在中の穴山家臣に密使を送り、遠江の情勢を探るよう命じた。そしてもし氏真が敗れるようであれば、駿河攻めを行うという本音を吐露したのである。 信玄は、遠江の争乱をきっかけに、今川氏真に見切りをつけた。氏真には領国を維持する能力はないと判断し、駿河領国化を模索し始めたのである。結局、氏真はこの争乱の鎮圧には成功した。だが信玄は、外交関係再編を考え始めた。その中心が、織田信長との同盟である。 |