武田復姓
諏訪勝頼
 


 勝頼を重用する信玄
御一門衆を重用しないことは前項で記したが、その中で信玄の弟信繁と勝頼は例外であった。信繁は北信濃で長尾景虎(上杉謙信)と対峙していたようで、どこかに在城していた節がある。(嫡男信豊には継承されていない)外交面でも信玄を補佐しており、嫡男長老(信豊の幼名)に充てる形をとった「家訓九十九箇条」は、一門の立場での忠義を説いたものである。
勝頼は、次兄龍芳同様、国衆家を継いだ。龍芳が失明してしまったため、政治活動を断念せざるを得なかったのに対し、勝頼は高遠諏訪氏当主として上伊那郡を治め、その軍勢を率いる身であった。
御一門衆は、甲斐南西郡河内領を治める穴山武田氏を除けば、信玄の弟か子息であり、独自の基盤を持たない。つまり、信玄が領地と家臣を用意してやらねばならなかったのである。その有力な手段が、国衆家の相続であった。これは国衆側からすれば「御家」の乗っ取りに他ならず、当然反発を招く。
しかし、国衆家臣にしてみれば、より有力で強大な軍事権力である戦国大名武田氏に近づけることをも意味する。もともと国衆の家も、軍事力の結集・保護を期待した周辺小領主が家臣となって確立したものだから、武田氏に近づけることは、利点もある。家臣を味方につけるよう事を運べばうまくいく可能性があるといえる。高遠諏訪頼継失脚後、「高遠近習」衆が信玄に所領安堵を求めた一方で、諏訪満隆が勝頼誕生後に謀反を起こして自害したが、信玄が諏訪氏本宗家を避け、後継者不在の高遠諏訪氏を勝頼の入嗣先に選んだ理由がこれである。勝頼は高遠諏訪領と家臣団を相続し、直ちに武田氏を支える藩屏となり得たのである。
  木曽氏を厚遇した信玄息子
永禄7年(1564)6月、信玄は娘婿で、信濃木曽郡の国衆木曽義昌の家老千村俊政と山村良利に書状を送った。前年、義昌が甲府にあいさつに訪れており、信玄はその答礼を考えていたのだという。木曽義昌は「軍鑑」では「御親類衆」に列せられている人物である。信玄の娘婿は数多く存在するため、木曽義昌も先方衆と位置付けるべきとされる。ただ、かなり早い段階で武田氏から朱印状使用を許可されている点は特別で、木曽一郡領有という勢力の大きさも無視できない。信玄の娘龍院殿が義昌と婚約したのは、彼女が5,6歳の頃と見られ、東美濃を除けば、武田領国の西端を領する木曽氏が非常に厚遇されていた様子がうかがえる。
この時、信玄が書状で述べた答礼計画も、破格のものであった。信玄は、自分または義信か、最低でも勝頼が答礼としてあいさつに行くべきだと考えていたが、関東出陣が続いたため、果たせないでいたという。これ以上遅れるときりがないので、家臣をひとまず派遣する。落ち着き次第、改めて木曽領との境に位置する洗馬(現塩尻市)まで信玄自身が挨拶に赴くつもりだという。
 義信の代理としての勝頼
これほど気を使っていることからすると、義昌の参府自体が特別なものだったのだろう。永禄8年までに義昌の父義康が出家して聴雨齋宗春と号しているから、永禄6年の参府は家督相続の挨拶か、信玄息女真龍院殿の輿入れに関するものかもしれない。この年、彼女は14歳になっている。
信玄が「愚息四郎」こと勝頼を自分自身と義信に次ぐ答礼候補として挙げていることに注目したい。諏訪勝頼となってわずか2年、勝頼はすでに信玄自身か嫡男義信の代理を務め得る人物と評価されているのである。ここで求められたものは、交渉能力ではない。武田一門における家格序列、それも信玄名代を果たせるかが問題となる。その際、勝頼は教養人である叔父信廉を差し置く形で、嫡男義信に次ぐ候補として選ばれた。それは、彼が「事実上の次男」であったからに他ならない。
「事実上の次男」―これは、庶子扱いで「信」字ではなく、「勝」字を与えたことと矛盾する一門内の序列である。では、なぜこのように複雑な事態が生じたのだろうか。(続く)




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