武田復姓 「御一門衆」という家格 |
他家を継いだといっても、勝頼が信玄の四男である事に変わりはなかった。兄たちのうち、次兄龍芳は小県郡国衆海野氏に入嗣したが、弘治2年(1556)16歳の突起に疱瘡を患って失明し、政治的活動が不可能になった。三兄信之は、甲斐源氏安田氏の家督を継承することが想定されていたが、天文年間に10歳で夭折している。弟の盛信は、永禄5年(1562)段階ではまだ6歳に過ぎない。 このことは、勝頼が政治的には、事実上信玄の次男と言う立場にあったことを意味する。その上、永禄4年の第四次川中島合戦で、信玄は信頼厚い弟信繁を失った。次の弟信廉は33歳であったが、絵画に優れた文化人と言う側面が強く、文武両道で前線で活躍した信繁ほどの働きは期待できない。
戦国大名の多くは、一門を登用し、軍事・内政を任せた。これは身分を問わない人事登用を行ったイメージが強い信長や秀吉においても変わりはない。その際「一門」として処遇されたのは、大名の子息・兄弟と言った近親に限られ、早くに分かれた庶流家は区別された。大名によっては、庶流家に大名と同じ苗字の使用を禁じている。 武田氏では、信玄が一門を「御一門衆」と「親類衆」にわけた。御一門衆に列せられたのは、基本的には信玄の子弟と、二重の姻戚関係を結んだ穴山武田信友・信君父子に限られる。祖父信縄以前に分かれた庶流家は「親類衆」に列せられ、「御一門衆」とは区別された。このうち親類衆は、武田苗字の使用を制限される傾向にあったようだ。
内政面では逆に、親類衆には武田氏奉行人として登用されるものが増えていく。彼らは礼遇されていても、家中に包摂され、譜代家臣として扱われるようになっていった。 これに対し、御一門衆が奉行人のような役割を果たす事はほとんどない。彼らは、武田氏とは「別家」を構えた存在であり、独立した家の主として武田氏の「藩屏」となることを期待された家中の外の存在であった。 ただし信玄は、御一門衆にもあまり大きな権限は与えなかった。信玄期の御一門衆が、各地の支城主・城代や郡司に任命された事例はほとんど存在しない。一時的に前線城郭への在番を命じることはあっても、基本的には甲府に留め置いた。彼らが活躍したのは、主として外交面で、一門としての高い家格を生かし、他大名とのやり取りに関与した。 この背景には、御家騒動の繰り返しの結果、姉婿穴山信友を除き、「御一門衆」は信玄より年少の人物ばかりという現実が存在した。軍事・内政面で重責を任せられるほどの年齢に達した人物が、ほとんどいなかったのだ。 また、信玄が一門・親類への猜疑心を拭えなかったという側面もあったのではないか。自身のクーデターまで続いた武田氏の御家騒動の歴史が、影を落としていたのであろう。 |