名君・上杉鷹山
 ~家督と決意~
 


 上杉家の実情
鷹山は、上杉景勝から数えて九代目の米沢藩主であった。また、越後以来の戦国大名上杉謙信を祖とする上杉家の十代目にあたる大名でもある。上杉家では謙信を祖として数え、第十代という家督が優先的に使われている。外様大名としての上杉家は、徳川将軍以前の戦国時代に、自らその領国を培った謙信を祖神として祀る意識が、江戸期を通じて強く持っていたことが知られる。
上杉家は、江戸期以後、関ケ原戦の処分で会津120万石から30万石に、寛文4年(1664)には藩主綱勝の急死で、さらに領地は15万石に削封される不運にあっている。約6千人の家臣の大部分は、越後以来のものである。上杉家の再興といえば、越後時代に帰るというのが単なる幻想ではなかったものと思われる。明治元年の戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟軍の指導的立場にあった米沢藩が、旧地奪還を旗印に越後に乗り込んだのも、その一つのあらわれといえよう。
このような歴史的背景を持つ米沢藩上杉氏は、宝暦年間になると、これまでかつてない一大危機に直面していた。まずそれまで政治の常道とされてきた、譜代家老たちによる奉行体制が行き詰まり、また極度の財政難が表面化したのである。これに対して、小姓頭兼郡代所頭取森平右衛門が政権を握り、一時変則的な政治が行われた。財政難の打開のためには、領外特権商人との積極的な提携が図られ、また領内では、村々に新たに台頭してきた地主商人に対して献金を求め、代わりに苗字帯刀を許す方策を進めた。一方、地方支配の機構改革も試みられ、現実的な対応策が見られたものの、森頭取を中心とする専制的な活動に対しては、藩内部での対立もあって、一つのお家騒動に発展した。
 鷹山藩主となる
森政権に反発した中心勢力は、江戸における改革派の面々で、この対立は宝暦13年(1763)2月、竹俣当綱が森平右衛門を奉行詰の間で誅殺するというクーデターによって決着した。これにより改革派が台頭する。しかし財政難を始め、政治の行き詰まりは深刻であり、奉行竹俣当綱は、このような状況の中では家臣や領民の生活も保障できないとして、領地を幕府に返上する案文を作成したほどであった。この進言は取りやめとなったが、改革の準備はいかに困難なものであったかを物語るといえよう。その背景には、改革に入るための、家臣の結束を図る上での政治上の駆け引きがあったとも推測される。
そして明和4年(1767)3月、新藩主に鷹山が迎えられて、名実ともに改革がスタートした。先代の藩主重定はまだ健在であるのに、あえて17歳の青年鷹山が家督したのは、改革派の計画によるものであり、その期待を担っての登場であったことは当然である。
鷹山の幼名は松三郎で、元服して治憲となり、鷹山を名乗ったのは藩主を隠退し、さらに岳父重定が亡くなった享和2年(1802)以後である。鷹山は、先代の藩主重定に男子がなかったことから、上杉家の姻戚にあたる九州高鍋藩の第二子から、9歳で養子に迎えられ、間もなく世子に決まっていたのである。
鷹山は若くして藩主となったが、藩政の危機をいかにして乗り切るか、その改革の使命を自覚していたことは、上杉家の祖神春日社と米沢の鎮守白子社に奉納した、二つの誓詞からも読み取ることができる。これらはともに、明和4年に上杉家の家督の年に奉納したもので、8月1日の春日誓詞では、一つは文武両道につとめること、二つに「民の父母」の心構えを第一とする事、三つに質素倹約を忘れないことを誓い、9月6日の白子誓詞では、国家衰微のため、人民が難儀をしている、大倹約令を実行して、藩政の中興を図りたい、との決意を述べている。前者は先祖に対する私的な誓いであるとすれば、後者は藩主としてのより公的な立場で、藩政改革の決意を神前に宣言したものといえよう。
 米沢へ
藩主の家督にあたって、その政治理念と実践を神前に誓うことは異例である。その存亡の危機が、いかにかつてないほどのものであるかを、鷹山自身が強く意識していたものであることの証拠であろう。
鷹山が初めて米沢に入部したのは、2年6か月後の明和6年(1769)10月19日のことであった。江戸と米沢間は普通8日間の日程を要したが、米沢入城の際は、米沢より一里離れた関根から乗馬するのがそれまでの慣例となっていた。ところが鷹山は、関根より一つ奥の大沢から乗馬し、側近が止めるのも聞き入れず、風雪の中を雄々しく入城したというエピソードがある。青年藩主の頼もしい姿が想像される。
米沢に到着したのは27日であった。祖神謙信の霊を祀る「御堂」に参詣し、次々と初入部のお祝を受けているが、入部後一週間余のうち、城下の主な神社への参詣の中でも、御堂への参詣は最も熱心であった。
家督のお祝として、家中の面々が、組毎にその代表が対面するのも、一つの慣例であったが、11月3日から行われたこの祝儀では、まず御馳走は、従来の料理と酒から、赤飯と酒に変更した。これは倹約によるというものである。一方、群臣との対話は、鷹山の格別の望みもあって、足軽級まで呼び出され、実施されている。これも前例のないものであった。
伝統的な慣習を改めるということは、江戸期の武士社会では極めて勇気の必要なことであった。特に養子大名として初めて入部した鷹山が、これを実行するには、一つの信念がなければできないことである。まさにこの信念が、先の誓約にも込められていたといえよう。






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