3・会津藩の戊辰戦争と容保
容保の沈黙 

    死の二年前に残した一首
松平容保は、戊辰戦争に関して、何一つ語りもせず、明治26年(1893)の暮れ、58年の生涯を閉じた。明治の26年間、語るべきことは有り余るほどあったに違いないが、彼はついに沈黙を通し続けたのであった。
その容保が、死の二年前に残した一首に、彼の心境がつづられている気がする。
 今も猶 慕ふ心はかはらねど はたとせ余り 世はすきにけり
これは、明治24年に行われた、戊辰戦死者の23回忌にあたって詠まれた容保の和歌である。彼の、万感の思いが込められた、と思えるこの歌が、何を語り、何を意味するものであったのか、ということこそが大事なのだと思う。
表面上の意味は、現在でもなお、慕う心はまったくかわっていないが、二十余年も、世の中は過ぎてしまった。しかしそれだけでは、容保の訴えたい内面の、入口にさえも到達していない。平凡な、ただの詠嘆の歌という解釈にとどまる。
容保の、慕う心の向けられたのは、なんであったのか。それは、孝明天皇でも明治天皇でもなく、ましてや徳川慶喜のはずもなく、戊辰戦争の会津藩士及びその家族の死者に向けられたものであると言えよう。「慕う」というのは、単に懐かしく恋しく思う、という意味ではない。この場合、その人品を愛して、手本として習うべく、そうした存在の人々として、懐かしく思う、という深い意味が込められている、と解すべきである。 
    静かなる抗議 
容保は、戊辰の年の会津藩の行動を、そして自らの行為をも、たとえ結果として敗れてしまったとはいえ、決して恥じてはいない。20年余り、世は過ぎてしまったけれども、彼の内面は少しも変わっていない。いや、このとき、むしろ容保にとっては、二十余年という巨大な時間も空間もない。彼は紛れもなく、戊辰の年の彼と会津藩の立場に立っているのである。
戊辰以後の二十余年は、討幕派の二十余年であり、今や天皇や憲法さえも独占する、薩長藩閥政府にとっての「はたとせ余り」の世である。彼らの明治において、彼らは、戊辰戦争で死をもって訴えた会津藩そして容保の抗議の意味を、ついに受け止めようとはしなかった。「ははとせ余り、世にすきにけり」と、一切の修飾を拒否した下の句の表現に、容保の内面における激しい感懐のほとばしりを見る気がする。
容保に比べれば、徳川慶喜は、饒舌すぎるほどともいえる弁明をしている。慶喜の弁明・回相談には、鳥羽・伏見戦争は、会津藩=松平容保ら強硬派の暴挙であって、慶喜自身は戦う意思がなかった、ということに尽きる。この慶喜の主張を到底そのまま信じることはできないが、それにしても、明治40年(1907)から始まった、この慶喜の回相談の内容を、容保が知ったらどうであっただろうか。容保の絶望は、より深くなったであろうと思う。慶喜の弁明を知らずに、容保が世を去ったことは、容保にとってはまだしも幸いだったのかもしれない。
   





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