1・松平容保の人生
会津藩の流儀 

    会津藩へ養子に
弘化3年(1848)4月27日、銈之允は江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷に迎えられ、8月15日には登城して将軍家慶に拝謁。12月16日、従四位下侍従に叙され、若狭守を兼ね、家格に従って溜間詰となった。容保を名乗る。
銈之允は「なるほど、お子柄がいい」と、会津家の男女が騒ぐほど、美貌の少年だったといわれる。容敬も満足した。
容敬は血筋から言えば容保の実の伯父にあたり、水戸家にもつながる。したがって容保が容敬の養子となることは、保科松平家の伝統を継ぐと同時に、水戸家とも接近する事であった。この事実は容保の生涯をたどるうえで、極めて重要である。
容敬はさっそく会津家の家風につき、容保の教育に取り掛かった。すなわち、神道と儒教と家訓の三本の柱についてである。これは藩祖保科正之の遺した会津藩の精神的規範であり、日新館教育の典拠たるべきものであった。
保科正之は神道においては吉川惟足に師事し、晩年にはその奥義を伝授されている。また儒教については、山崎闇斎の朱子学に学んだ。ここにおいて正之は、浸透の「敬」をもって敬神崇祖、つまり皇室尊崇と徳川家への絶対随順の根拠とし、儒教の「義」と「理」に基づいた五常五倫の実践哲学をもって藩内の精神的・思想的な和合統一、つまり藩政への指導原理とした。
    家訓十五か条 ① 
寛文8年(1668)4月、正之は会津から国家老の田中三郎兵衛正玄を江戸に呼び、「家訓」十五か条を授けた。会津藩では「家訓」をカキンと呼ぶ。これは藩老友松勘十郎氏興の建言を容れ、正之みずから起草し、山崎闇斎に潤色させたもので、いうならば会津藩の「憲法」ともいうべき、基本的な掟である。
その第一条には、「大君の義、一心大切に忠勤を存すべし。列国の例を以て自らおるべからず。若し二心を懐かば、即ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」と、会津藩立藩の精神がはっきりと宣言されている。我が会津藩においては、徳川将軍家に対して一心大切に忠勤を尽くすのが立藩の精神であって、他の藩と同列に考えてはいけない、もし藩主たる者が将軍家に対して二心を抱くようならば、それはもはや我が子孫ではないのであるから、家臣一同はそんな藩主に従ってはならない、というのである。この厳しい、徳川宗家への随順の精神こそ、御家門会津家存立の第一前提なのである。
    家訓十五か条 ②
続いて「武備は怠るべからず、士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱るべからず」「兄を敬い弟を愛すべし」「婦人女子の言、一切聞くべからず」「主を重んじ、法を畏るべし」等々といった倫理条項が羅列され、さらに第12条には、「政事は、利害を以て道理をまぐべからず。僉議は、私意を挟み人言を拒ぐべからず。思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うと雖も、我意を介すべからず」とある。「利害」や「私意」をもって政治や裁判を行うな、どんなに自分の思う所について言い争うとも、そこに「我意」を介入させてはならない、というのである、
そこで説かれているのは「無私」の哲学である。それはいつでも戦争に応じうるという、当時の幕藩体制、即ち戦時体制社会に生きる武士階級だけではなく、とくに仙台の伊達家、秋田の佐竹家、米沢の上杉家といった、戦国以来の武名高い諸大名を抑えて「奥羽鎮護」という大きな使命を課せられた会津藩の武士およびその家族に要求される倫理綱領であった。現代の日本人から見れば、それはあまりに過酷すぎると思われるだろうが、それが戦国乱世の風雲を切り抜けたばかりの、当時の武家社会の現実であった。そしてそれが幕末まで2百年にわたって、うち続く天下泰平の眠りの中で、いささかも風化されずに脈々と受け継がれてきたところに、会津藩教学の凄みがあったのだ。
おそらく容敬は養子の容保に、このような会津藩の伝統について教えたはずである。事実、容敬は自ら容保に日常の心得を箇条書きにして与えたり、家老の山川兵衛重英を容保の教育係に任命して「万事不差控」に教育することを命じている。そして嘉永4年(1851)5月には、数え17歳の容保を政治向き見習の為と称して会津に赴かせ、藩国の実情を見聞させてもいる。





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