1・松平容保の人生 高須松平家 |
高須松平家 |
松平容保は後述もするが、純粋な会津藩出身ではない。尾張徳川家の分家である高須松平家の出である。 高須松平家は、美濃国石津郡に高須藩3万石を領していた。維新後の明治3年(1870)12月に本藩である名古屋藩に吸収され、翌4年7月名古屋県に所属したが、同年11月、美濃全体が岐阜県の所管となった為、愛知県に入らず岐阜県に編入された。 その高須松平家の9世となった義和の子が10世義建である。会津家8世容敬は水戸藩徳川義和の子であり、高須家10世義建の異母兄にあたる。 幕末・維新の時期に高須藩そのものは特に目立った活躍はしていないが、この義建の子の何人かは幕末維新史上その名を逸する事の出来ぬ存在となった。松平容保もその一人である。 おそらく維新後であろうが、義建の子4人が一堂に会した写真がある。4人とも洋装の礼装を身にまとい、二人が立ち、二人が椅子に掛けている。その人物たちの名は、徳川慶勝(尾張)、徳川茂栄(一橋茂徳)、松平容保(会津)、松平定敬(桑名)である。 |
高須四兄弟 |
徳川慶勝は、一橋慶喜を将軍後継者に担ぎ、日米修好通商条約の無勅許調印をもって大老井伊直弼を非難したため、安政5年(1858)7月、幕府に退隠を命ぜられた尾張藩主(第14代)。文久2年(1862)4月、和宮が将軍家茂の妻として降嫁した大赦により謹慎を解かれ、元治元年(1864)8月、禁門の変による第一次長州征伐の征討軍総督となる。 しかし、勤王派の慶勝は御三家筆頭の地位にありながら終始反幕的姿勢を取り続け、慶応3年(1867)10月の大政奉還後は、王政復古の大議に参画し、新政府の議定職に就く。慶応4年1月、鳥羽・伏見戦争ののち、京都から帰藩した慶勝は、いわゆる「青松葉事件」を起こして藩内の佐幕派14名を「朝命」のもとに粛清し、無血のうちに名古屋城を開城して、新政府東征軍の江戸進撃に大きく道を開いた。維新後、再び尾張家の家督を継ぐ。 徳川茂英は、慶勝が尾張藩主を退隠させられたのち第15代藩主となり、佐幕派路線の藩政を行う。文久3年(1863)5月、将軍上洛中に江戸城で留守居役をつとめていたが、薩摩藩が引き起こした生麦事件の賠償金問題で、幕府の負担させられた賠償金支払いをイギリスに認めたことで藩内の対立を激化させ、同9月、家督を慶勝の子義宜に譲って隠居。玄同(平等無差別の意)と号した。慶応2年(1866)4月、長州再征の先鋒総督を命ぜられたが辞退。のち一橋家を相続し、維新に際して、前将軍慶喜の助命嘆願に奔走する。 3番目が松平容保である。 4番目の松平定敬は伊勢桑名11万石の藩主である。元治元年(1864)4月、稲葉正邦のあとをうけて、19歳で京都所司代となり、戊辰戦争では松平容保とともに新政府軍と戦う。会津落城後、榎本武揚に合流して箱館に至り、五稜郭に籠ったが、落城に先立ち藩士の説得を容れ、横浜に至って新政府に投じた。 |
松平容保誕生 |
上記4名は、すべて高須松平家の義建の子なのである。幕末維新に際しては、慶勝(義建二男)は新政府側、茂栄(五男)、容保(六男)、定敬(七男)の3人は佐幕派として対立せざるを得なかったが、上記写真の時期にはすべての波瀾を乗り越えた平穏のうちに、血のつながった兄弟として、同じレンズの前に立ったわけである。一番の兄慶勝が兄弟で最も早く、明治16年(1883)に亡くなっているので、この写真の撮影年代は少なくともそれ以前ということになる。 容保は、松平義建の六男として、天保6年(1835)12月29日、江戸四谷土手三番丁の高須藩上屋敷で生まれた。幼名銈之允。この銈之允を会津中将(会津藩主)容敬が「養子に欲しい」と言ってきたのは、弘化3年(1846)、銈之允数え12歳のときである。 容敬には女子2人がいたが、男子がいなかった。したがって、誰か養子を迎える必要があった。そこで白羽の矢が立てられたのが、異腹の弟である義建の子銈之允である。義建もこの申し入れを受け入れた。 |