戦国大名の家臣団構造
~「北条家所領役帳」の世界~
 

 「北条家所領役帳」
戦国大名の家臣には、どのような存在がどれほどいたのか。あるいはその組織はどのようなものだったのか。そのような具体的な家臣団の構造がわかる事例は、実はほとんどないのである。だが、ある特定の時期におけるものではあるが、家臣団のほぼ全貌がわかる事例がある。それが永禄2年(1559)に小田原北条氏によって作成された「北条家所領役帳」である。
この史料は、当時の原本がそのまま残されているわけではなく、江戸時代の写本が伝えられているに過ぎない。そのため誤記や誤写と見られる部分も少なくはない。また本来の表題は不明であり、そのため本文一行目をとって「小田原衆所領役帳」とか、内容が江戸時代の大名家における家臣団名簿である「分限帳」に類似するために、「北条分限帳」等と呼ばれてもいた。しかしそれではこの資料の性格を正しく認識できないため、近年では内容に即して、「北条家所領役帳」と呼ばれるようになっている。
これは北条氏三代目当主の氏康が、家臣の太田泰昌らに命じて、家臣らに対する普請役など、家臣の知行(所領など)を対象に負担させる知行役についての賦課状況を調査し、その台帳として作成したものである。記載は、いわゆる軍団を単位にまとめられているが、そのうちの御馬廻衆・玉縄衆・客分衆の末尾に、永禄2年2月12日(旧暦)の作成日が記されているから、およそこの日を期して全体が作成されたとみられる。作成に当たった奉行として、太田泰昌・関為清・松田康正の3人の家臣の名が、また筆者として安藤豊前守の名が記されている。
 衆(軍団)ごとに構成
記載は、およそ軍事編成上の単位である衆(軍団)ごとに構成され、その中で家臣1人ごとに、その知行地について、その知行貫高と知行が存在する郷村名が列記され、それぞれについての知行役賦課状況が記されている。これによって、永禄2年の時点という限定は付けられるものの、北条氏の家臣一人一人が、どこにどれだけの所領を持っていたのか、さらには北条氏の家臣らに対する軍事編成のあり方、賦役した役の種類など、北条氏の基本的な家臣団統制について知ることが出来る。こうした事を知る事ができるのは、戦国大名の中でもこの北条氏のみであると言ってよく、そのためこの史料は、北条氏の家臣団構造にとどまらず、戦国大名の家臣団構造を具体的に示す、極めて重要な史料となっている。
個々の家臣団帰属集団を意味する衆編成については、小田原衆・御馬廻衆・江戸衆・河越衆・松山衆・伊豆衆・津久井衆・諸足軽衆・織人衆・社領・寺領・御一家衆・客分衆の15に分類されている。ただし最後の御一家衆・客分衆については、史料上には明確な記載はなく、内容からそのように分類されているものに当たる。
 各衆の横顔
 小田原衆
最初にあがっている小田原衆は、北条氏の本城小田原城に配備された軍団である。
 御馬廻衆
当主の側近家臣・奉行などから構成される当主の親衛隊である。
 諸足軽衆
軍事専門の遊撃軍団ともいうべきものに当たる。
上記3つの軍団が、いわば当主直属の軍団という性格であった。
 各支城ごとに配置された衆
玉縄衆から江戸衆・河越衆・松山衆・伊豆衆・津久井衆までは、それぞれ支城に配備された軍団であった。支城とは、領国の中における軍事・行政単位ごとに、支配を管轄する城郭をいう。本城の小田原城に対して支城と称しており、いわば本庁や本店に対しての支庁・支店にあたるものである。
 職人衆・他国衆・社領・寺領
職人は職人、他国衆は北条氏に従属する外様国衆、社領・寺領は神社・寺院のうちで、北条氏から知行を与えられているものにあたっている。もっともこれらのうち、職人・寺社は明らかに家臣とは言えない存在である。職人は、その職能を通じて、北条氏に対して奉公関係を結んでいる存在で、そのことを以て職人と括られていた。製品の納入や、技術の提供などを行い、それへの反対給付として、納税すべき税金を免除されたり、さらには知行を与えられた。ここにあげられているのは、そうした職人のなかで知行を与えられている者たちである。寺社についても基本的には同様といえ、祈祷などを通じて北条氏に奉公する関係を結んでいるもののうち、それへの反対給付として、特に知行を与えられたものがあげられている。
他国衆は、、あくまでも北条氏の家権力の外部に存在し、自立的に存立していた。その領国に対し、北条氏から安堵を受けるものの、譜代家臣と同様の課税を受けることはなかった。
各衆の家臣ごとにそれぞれ知行が割り当てられているが、その知行とは、北条氏の狭義の領国で与えられたものであり、それは北条氏の本拠への参府のための交通費や、人質として送られている者への生活費などの為であった。したがってそれらの知行に対しては、譜代家臣とは異なって、知行役を賦課されることはなかった。
 御一家衆
北条氏の御一家衆とその家臣である。最も最初に出てくるのは、古河公方足利義氏であり、北条氏にとっては主筋に当たる。北条氏は領国の中から義氏に所領を提供しており、その部分も掲載されている。当然、他の譜代家臣とは違い、知行役を賦課されることはなかった。
 客分衆
伊勢氏など京都下りの人々にあたっている。伊勢氏は北条氏の実家ともいうべき一族であり、その一族のうちで北条氏を頼って来住した者があった。他にも、大和氏・小笠原氏など元室町幕府奉公衆や、田村安栖軒など京都・奈良出身の医師などがあがっている。北条氏に文芸や医術などを提供し、それへの反対給付として知行が与えられていた形になる。彼らについても、知行役の負担はなかったと思われる。




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