名家老小松帯刀 
~豪商浜崎太平次~
 


 浜崎太平次とは
小松帯刀は皆の支持を得て、動かぬ経済の実績を示しつつあった。これは浜崎太平次など御用商人の経済的後ろ盾によるもので、着々と事が進んだからである。では、帯刀がこれほど頼りにしている指宿湊の浜崎太平次とは、いったいどのような人物であったのだろうか。
指宿湊の浜崎太平次は、家合をヤマキと呼ぶ船問屋で、大坂や京都などの日本の豪商十指の中に数えられるほどの、薩摩第一の豪商であった。指宿山川港を根拠に三十数隻の千石船で、薩摩藩などの御用商として、黒糖・米・唐物商などを営み、広大な造船所まで経営する大商人であった。
この浜崎家の第一代は、国分八幡の神官であったが、故あって指宿に移り住んで、ささやかな船で海上輸送を家業として生計を立ててきた。五代目の浜崎太左衛門の時に商売が栄え、寛政年間の全国長者番付には、263人のうちの首位にのし上がっている。大坂や京都などの豪商たち、さらには「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われたほどの豪商・出羽の本間家をもしのぐ。(本間家は10位)
ところが7代目になって事業が思わしくなく、家運が傾いてきた。その時代に生まれたのが八代目の太平次であった。14歳になった太平次は、たった一隻になった唐物船に乗り込んで、琉球の那覇の港に渡った。唐物船というのは、琉球を中継として、清(中国)やルソン(フィリピン)の物品を密輸入し、日本の特産物を売ったのである。船は鶴の港と言われた山川港を根拠地としている。
太平次が海洋へ乗り出したころは、外国との商取引は取り締まりが厳しく、幕府の許可をもらった御朱印船でなければ、勝手に商取引はできない。ただ鹿児島だけは琉球を支配しているので、琉球の商人を中継として、中国やルソンそのほかの珍しい商品をもってくることができた。禁止されているものを持ち込むことはできないが、こっそり持ち込むと密輸品として、唐物取締掛が厳しく検閲し、密輸者を厳しく処罰した。
 琉球中継貿易で儲ける
当時、薩摩は往年の木曽川工事などの赤字が累積して、五百万両という莫大な借金を大阪商人などから借りていた。この財政立て直しを調所広郷にあたらせた。調所は琉球の砂糖・唐物の密輸を行わせ、それを全国諸藩と交易させ、財政立て直しを成功させるしかないと覚悟した。家老となった調所は指宿の浜崎太平次の人柄を信じ、鹿児島に呼んで薩摩の御用商人とする。そして薩摩御用船で唐物も密輸し、琉球奄美の砂糖とともに、大坂方面へ売り出させ、莫大な利益を上げた。これで薩摩藩の財政基盤ができたのである。その代わり、太平次の密輸に対しても、大目に見て見逃してくれた。そのため薩摩藩の財政に貢献しながら、太平次の事業も大きくなり、持舟も三十数隻を数えるようになった。このように太平次は、薩摩藩庇護のもとに、北は北海道から南は琉球、あるいは台湾・中国・ルソンまで交易し、それを大坂方面に売りさばいた。薩摩藩御用商人として大胆な唐物商、密輸貿易をしたので、日本有数の長者にのし上がったのである。
なお、調所広郷は、大坂商人からの借金返済に250年返済の借用証文を作らせるなど商人泣かせを強行したため、密輸をしていることを幕府に密告され、その責任を一身に背負い、自害して果てた。
太平次は薩摩の御用商人の代表で、他にも多くの御用商人がいたが、太平次は特に島津の殿様や家老の信任も厚かったので、士分扱いを受け、太平次正房と名前を頂き、鹿児島城下潮見町に総支配所を移し、朝日通海岸に大きな邸宅を設けている。そして指宿を支配所に、那覇の支店、長崎西浜町支店、大坂港支店、蝦夷箱舘支店があったから、いかに盛大であったかが忍ばれる。
また太平次は屈指の豪商であったと同時に、彼が作った造船所も日本の造船業に大きな功績を残してもいるのだ。太平次が沖縄で西洋の綿糸を手に入れ、これを斉彬に差し上げたのがきっかけで、斉彬は綿糸を作り、斉彬没後の慶応2年(1866)五代友厚はイギリスのブラッド社に紡績機械を注文し、日本で初めての紡績工場を磯浜に建てた。それ以来、紡績が日本経済を発展させたのである。
天保・安政の飢饉に際しては、熊本から米を運び、山川港に陸揚げし、それを指宿の困窮者に恵んで救済したことも再三であったという。
太平次は単なる商人富豪ではなかった。日本の国士と言っても過言ではない傑出した商人であった。小松帯刀が家老となり、琉球掛・産物掛・唐物取締掛となって太平次に頼むと、まず率先して献金した。その結果、他の御用商人らも彼に従ったのである。
 その死を惜しむ
文久2年3月、帯刀が薩摩藩にミニエー銃を購入するとき、「おかしあげ」の相談に応じて献金した。この時太平次は金2万両を献金し、他にも34名の商人が献金し、合計すると12万3千両の献金となった。
小松帯刀が家老職の上に、諸掛を兼務して、軍事、教育、経済、予算を一手に握る事ができた理由がここにあった。藩の収入を得る道が、浜崎太平次など御用商人にかかっていたのである。この元締めが家老の小松帯刀であった。薩摩が小松帯刀を中心に動いているので、各藩の志士が「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と言った意味がここに理解できる。それは同時に、浜崎太平次の協力あっての薩摩藩であった。しかし、太平次は文久3年(1863)任務により大坂にいたが、大坂支店で病となり、この事を小松が奏上したのか、孝明天皇の耳に入り、天皇の侍医を病床に御派遣になった。太平次は聖恩に感激しつつも叶わず、遂に6月15日他界した。享年50歳であった。
死去の知らせを聞いた島津久光は、「私は大事な片腕を失った」と言って嘆いたという。
当時、多くの藩が経済・財政面で苦しんでいたのに、薩摩藩は割合にゆとりを見せ、そのため幕末・明治維新の大変動期にあたって、大きな力を見せたのは、浜崎太平次をはじめとする、薩摩の経済を支えた御用商人のおかげであった。そして我が国の
海運沿革史の上に、太平次の功績は、「薩南海王」とたたえられ、長くその名を伝えられた。
文久4年(1864)2月6日、小松帯刀は指宿地頭職兼務を命ぜられた。浜崎太平次亡き後、薩摩藩財政の基本であった御用商人と藩とのつながりの為、小松を指宿地頭に繰り替えたのだろうか。太平次と帯刀が生前、密接な関係があったことを物語る地頭配置だったとも言えよう。




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