名家老小松帯刀 
~帯刀の経済政策~
 


 久光に抜擢される
小松帯刀は、文久2年(1862)薩摩藩父島津久光から家老に命ぜられた。身分は御側詰の家老である上に、担当は重要な多くの諸掛を命ぜられた。一藩の軍事・財政・教育・商工業など、ことごとくを双肩に担うことになった。任ぜられた役目は下記の通りである。
御勝手方掛は、予算と資金繰りの総元締め。御改革掛、御内用掛は藩政企画にあたるもので、すべての事を掌握する要職であった。御軍役掛、蒸気船掛は陸海の軍事と輸送、通商に当たり、造士館・演武館掛は若者の教育文武の掛である。鋳製方掛や御製薬方掛は工業、唐物取締掛、琉球産物方掛、蒸気船掛は通商交易で、藩の財政・経済の基本となるものであった。
このような重要な役割を、当時わずか28歳の若き家老に担当させたものである。だが帯刀は、この役目を担うにふさわしい人物であった。時代が急変する昨今、藩父久光は非常時の際、政令が迅速に一途に出るよう、このような形にしたのかもしれない。
帯刀は、それぞれの掛ごとに最適任者を抜擢し、どの掛にも発言し、指令が出せるように、実に鮮やかに藩政省を切りまわしていた。すべての施策事業には金が必要であるので、産業を興し通商を盛んにし、琉球・清国をはじめ諸藩と交易して、藩財政を豊かにし、これを重要な教育・軍備に惜しげもなく使ったのである。この思想は前藩主島津斉彬とほぼ同じである。帯刀は性格温和であるが、事を処する決断は抜群のものがあった。それゆえ、全国の志士たちが、薩摩の財政を操る家老小松帯刀の手腕を知り「薩摩の小松か、小松の薩摩か」というほどで、いつでも小松の邸を訪れて相談したのである。
 久光の信頼厚く
久光に抜擢された帯刀は、しばしば意見を求められた。あるとき、「藩の政治の重点をどこに置いたらよいか」と聞かれると、「斉彬公は世界の状勢をよく知ったうえで、国の現状に合った政治を行うことが大切だといつも言われていました」と答えた。その考えは久光も同じであった。さらに「斉彬公は、文明の進んだ外敵が日本近海に押しかけてきているのに、幕府が鎖国を続け、軍備も遅れているから、もし戦争になったらたちまちに敗れ、国土を乗っ取られる。浴びないことだと憂いていました」と続けると、久光も「全くその通り。まず砲台や軍艦、軍備を急がねばならない」と答えた。久光も、斉彬の理想を実現しようとしていたのである。
だが、そのためには当然相応の金が要る。そこで帯刀は、御用商人に藩の金を貸し与え、琉球の砂糖や、唐物商売、出羽の米などを大坂方面に売りさばかせ、藩自身も汽船を買い増やして他藩と交易することによって、儲けが出て藩を富ませる方針を進言した。
そのためには、有力な藩の御用商人である指宿の浜崎太平次の力を借りることが大切だと話した。そのためには御用商人を大切にし、彼らに儲けさせなくてはならない。ある程度のことには目はつぶらなくてはならない、と。
 浜崎太平次を呼び出す
文久2年12月、帯刀は「琉球の事や、唐物取引」のことについて意見を聞きたいと使いを立て、浜崎太平次を呼び出し、「久光公より家老を命ぜられ、琉球掛・琉球産物方掛・唐物取締掛も担当することとなった。今まで以上に藩の力になっていただきたい」と辞を低くして依頼し、他の船主たちも指導してくれるよう頼んだ。太平次ももとより異存はない。
こうして藩財政は太平次の協力によって、幕末明治維新の国興しの大事業に向かって動き出した。はじめ、帯刀や大久保利通ら若手重役連中主導の藩政は大丈夫なのかと訝しがられたが、日置派島津左衛門や西郷吉之助らの心配をよそに、着々と力をつけ、特に藩財政を豊かにし、その金で次々と新しい事業に取り組み、人材も登用していく。
結局帯刀らのやり方を見て、皆がこれを認めざるを得なくなり、反対派の批判も影を潜めるようになっていった。やがて西郷も島流しや左遷の憂き目にあったものの、再び呼び戻され、藩の首脳に返り咲き、帯刀や大久保等と一緒に、活躍することになった。




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