鍋島閑叟 ~西洋式改革進む~ |
佐賀藩は種痘の導入も早く、日本全国への普及の入り口となった。弘化4年(1847)の天然痘大流行に心を痛めた閑叟は、藩医林宗建から牛痘種痘法の効果を聞いて痘苗をオランダ人から入手するよう命じた。痘苗が長崎に渡来したのは嘉永2年(1849)、閑叟は藩医大石良英に命じて世子淳一郎(直大)に接種させた。殿の面前で若様に種痘が施されたのだから、当初は気味悪がっていた人々も納得し、種痘は急速に普及した。12月には閑叟の参府に随行した島田南嶺が佐賀から持参した痘苗を、伊東玄朴が貢姫(閑叟の娘)に接種した。それが江戸における種痘の始まりであった。
フェートン号事件と奉行松平康英自殺に衝撃を受けた幕府は、長崎港口警備を福岡藩と佐賀藩の軍役に任せる方式に加え、港内七か所に新台場を設けて長崎奉行所の地役人(代官・町年寄ら)に分担させた。オランダ商館に近接する出島台場の担当を命じられたのは、町年寄高島四郎兵衛であった。町年寄は長崎土着の有力者数家が世襲し、身分は武士と町人の中間で名字帯刀を許され、奉行指揮下に市中行政と貿易会所運営などにあたり、貿易利潤にあずかるので裕福であり、小さな大名並みの屋敷を構え、家来も抱えていた。四郎兵衛の子四郎太夫は秋帆の号で知られるが、台場備砲が旧式で威力が貧弱なのを痛感し、陸軍士官出身のオランダ商館長スチュルレルから西洋砲術を学んで、在来の和流をも加味した高島流砲術を開き、世評を得た。 天保3年、佐賀藩武雄領主鍋島茂義は、家来の平山醇左衛門を高島秋帆のもとに入門させた。武雄鍋島家は領地2万1千石余の佐賀藩名門で、長崎にも屋敷を置いていた。茂義は蘭学を好み、夫人は閑叟の姉だった。平山は秋帆の高弟となって高島流の免許皆伝を授けられ、天保5年には茂義自身も秋帆に入門した。翌6年、閑叟は近臣の坂部三十郎を武雄に派遣して砲術を学ばせた。同年秋には秋帆が武雄を訪れ、秋帆の手元で日本国内最初に鋳造されたばかりの西洋式青銅砲モルチールを持参して試射を行い、同砲を茂義に贈っている。 こうして佐賀藩内には他藩に先駆けて急速に洋式砲術知識が広がった。天保8年(1837)には佐賀藩は秋帆を介してオランダに各種新式兵器(鉄製カノン砲・臼砲・剣付火打ち石銃など)や兵書を注文するまでにいたった。天保11年には閑叟自身が高島流砲術の演習を親しく観閲し、同流を佐賀藩軍制に正式採用することに決めて、茂義を砲術師範役に、平山を蘭砲稽古取立に任命した。 佐賀藩の先進性は幕府や諸藩に先んじていたのである。 |