鍋島閑叟
 ~滲みわたる洋風~
 

 オランダ船の実体験
家役の長崎御番に人一倍の強い使命感を抱いていた閑叟は、天保8年(1830)新藩主として初めて佐賀入りするや、その後わずか10日足らずで待ちかねていたかのように長崎へ赴いた。そして親しく台場や番所を視察し、御番勤務中の藩士たちを激励した。
閑叟は時期参勤で江戸へ出るまで3度も長崎を訪れたが、2度目の6月27日にはちょうどオランダ船が入港しているので、閑叟は実際に乗ってみたいと強く希望した。天下泰平のこのご時世に大名ともあろうものは日本の商船にさえ踏み入れることなく、ましてや異国船に立ち入ろうなどとはとんでもない話であった。前例やしきたりを重んじる長崎奉行所はいい顔をせず、公儀を憚る家来たちも何とか思いとどまっていただきたいと強く袖を引いたが、閑叟は初心を翻さなかった。
奉行所はやむを得ず特別に許可を与え、閑叟は晴れてオランダ船の見学に乗り込んだ。彼ほどの貴人が自ら異国船を訪ねるのは異例中の異例だったから、船長は驚きかつ大いに喜び、船内の隅々まで案内してくれた。
閑叟は異国船の頑丈な構造を実見し、また海上から陸地を見渡すことで、改めて海防感覚を磨いたことだろう。若い殿の積極的な開放的態度は、佐賀藩士たちを強く感化させたに違いない。
江戸幕府発足から幕末開国までの約250年間に、将軍・諸侯に在位した延べ数千人のうち、異国船を実体験したのはおそらく閑叟だけであろう。あの島津斉彬でさえも未体験だったはずである。閑叟が敢行したことは、それほど破天荒なことであった。以後、閑叟の長崎視察とオランダ船乗り込みは恒例となった。
 伊東玄朴
翌天保2年(1831)には、オランダ医学の大家伊東玄朴が藩に召し抱えられた。伊東は、佐賀両の農医出身で佐賀蘭学の祖島本良順に学び、島本の勧めで長崎に出て、オランダ商館医シーボルトから教えを受けた。その後江戸で医業を開いて名声を博し、傍らオランダ書翻訳やオランダ語教授に従事、ビショップの内科書を訳術した「医療正始」は大評判で、蘭方医の必読書とされた。閑叟が藩主について最初の参勤で江戸に赴くや、早速伊東を江戸屋敷勤務の藩医に召し出したのである。伊東は診療の他に、閑叟の求めでオランダ書を翻訳したり、蘭学界に広い顔を利かせて幕府書庫秘蔵のオランダ書をかりだすなど、閑叟の洋学顧問として大いに働いた。
後年の安政5年(1858)、第13代将軍徳川家定が危篤に陥ったとき、伊東はそれまで漢方医で占められていた将軍侍医(奥御医師)に西洋医として初めて招かれて手腕を発揮し、日本医療史上に新局面を開いたことでも知られる。
伊東は私塾象先堂を開き、また安政5年に同志蘭方医を誘って江戸神田お玉が池に種痘所を設けた。同所はのちに幕府管轄の西洋医学所となったが、東京大学医学部の前身である。




TOPページへ BACKします