鍋島閑叟
 ~藩政改革~
 

 お国入り
第十一代将軍徳川家斉の息女盛姫と結婚した閑叟は、天保元年(1830)隠居した斉直の後を継いで第十代藩主に就任した。時に17歳であった。
晴のお国入り行列は美々しく江戸屋敷を出立したが、最初の品川宿で止まったまま動かなくなった。早くでかけよと催促する閑叟に対して、言葉を濁していた側近はついに苦しい実情を打ち明けた。江戸屋敷内で生活している藩士たちが溜まっている米や味噌・醤油などの代金を支払えない為、市井の商人たちが催促に押しかけて来て出立できず、大名行列の伴揃えが整えられないというのである。
「わが家中がここまで窮迫していたとは・・・・」、閑叟は愕然とし暗澹たる気持ちになったであろう。お金を何とか工面して行列が出発したが、閑叟は門出早々に屈辱的衝撃に打ちのめされ。藩政立て直し改革の断行を固く誓ったのである。
初めて佐賀の地を踏んだ閑叟は、非常な決意で経費削減に取り組んだ。まず自ら粗衣粗食に徹して、倹約の模範を示し、家中一統にも質素な生活を求め、各役所や江戸屋敷の経費も切り詰めるなど、乱脈財政からの脱却に着手したのである。
 天保の改革
佐賀にお供した穀堂は、天保2年(1831)閑叟の諮問に答えて長文の「済急封事」を提出した。そして、「今日急務の条々」として、人材の適用、倹約の勧奨、歳出の経常歳入枠内厳守などを懇々と説いた。さらに新田開発・国産奨励など増収策実践を具体的に提案したが、ただし藩への性急な利得収納を戒め、「上納などの事は先ず停め置かれ、民の潤いにさえなれば宜しいということに心掛けるべし」と、民が富めば藩も豊かになるとの施政理念を論じた。
閑叟の改革政治への道のりは平坦ではなかった。老公斉直を取り巻く守旧勢力は因習に拘泥し、陰に陽に閑叟の足を引っ張った。閑叟が斉直の起居する城内三の丸を訪れるときには、平素の木綿の粗服をわざわざ絹物に着替えなければならないほどだった。その気苦労から閑叟は一時不眠症に悩まされたこともあった。
好機が訪れる。藩主就任6年目の天保6年(1835)5月、佐賀城二の丸が失火で全焼してしまう。閑叟はこの災難を逆手にとって藩首脳人事を思い切って刷新し、要職を改革派で固めて斉直勢力を藩政中枢から外すことに成功した。ここに改革路線はようやく軌道に乗り始めた。なお、夫人盛姫の口利きで、幕府が二の丸再建費用のうち二万両を貸与してくれた。
以後、藩政改革は精力的に進められた。「均田制」を実施して、地主の土地集積を防ぐとともに、加地子(小作料)の取得を制限し、小農民を保護して農業生産の振興と農村社会の安定を図った。他方では櫨蝋・陶磁器・石炭など国産を奨励して特産物輸出に努めた。もともと佐賀平野は気候温暖で肥沃な米どころ、有明海は豊穣で水産物に恵まれ干拓の利もあり、地理的には長崎貿易へのアクセスが容易で特産物輸出には便利であるなど、好条件が整っていた。ゆえに藩主が本気で先頭に立てば改革の効果は表れやすく、財政事情は着々と好転していった。表高35万7千石の佐賀藩の実習高は90万石を優に超え、100万石に達したのではないかとされている。有数の富裕藩に大変貌した佐賀藩は、のちに旺盛な洋式軍事建設事業にとりかかることができた。
 弘道館
藩校弘道館も新藩主のもとで活性化が図られた。閑叟は初めてお国入りするや直ちに弘道館に臨み、身分の上下を問わず就学者全員を謁見して激励した。以後、毎月一度は必ず視察に訪れ、ときには自ら会読の席に連なることもあった。穀堂に鍛えられた閑叟は、並の学館書生らより高学力であっただろう。閑叟はしばしば学事奨励の諭告を発し、学館から「忠孝の志厚く、文武相励み、御用に立ち候人材」が育つことを期待した。特に衆の模範となるべき高禄上級士が勉学に励むことを望み、子弟の学館定詰を命じて修学を義務化した。泰平の世なので安逸に流れがちな高禄上級武士にとっては勉学が苦手で抵抗もあったが、閑叟は全く譲らなかった。こうして、かねて穀堂が「学政謁見」で論じた藩士皆学構想が閑叟の手で着々と実現に移されていったのである。
他方では学館係費を増額し、天保11年(1840)には使節を数倍に大拡張し、学舎・大講堂・寮などの他に武芸場や馬術訓練場も設け、天下に知られた文武両道の殿堂としての威容を示した。




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