鍋島閑叟
 ~神童貞丸~
 

 実態を伴わなかった長崎御番
長崎御番開始後の日本は泰平の世であり、概ね平穏無事な150年間だった。その間、世界情勢は大きく変わった。西洋では長崎御番の直接原因となったポルトガルやスペインの海上派遣が後退し、イギリスやオランダに取って代わられた。中国大陸では明朝が滅び、満州族の清朝が興起した。それに伴って日本をめぐる対外摩擦は総じて緩和され、長崎御番への緊張感もいつとはなしに緩んでいった。表面では相変わらず「異国抑えの大役」「部門の誉れ」と空威張りしていたものの、内実は費用がかさみ火の車、ただ惰性的に長崎見物がてら役目を務めている有様だった。
そこに降ってわいたのがフェートン号事件である。佐賀藩は醜態を晒して頭から冷や水を浴びせられた。しかし、態勢の立て直しといっても、当時はひどい財政難で身動きが取れない窮状に追い込まれていた
 藩財政困難
藩財政困難の根底には、諸藩に共通する構造的な原因があった。江戸時代を通じて商品・貨幣経済が着実に発達し、人々の生活水準が向上して商品購買意欲が高まり貨幣への需要が増大、武士もその例外ではなかった。しかし、武士の収入源は農民から徴収する年貢だから増徴には限度があり、とうてい貨幣需要の伸びに追いつけなかった。こうして赤字幅が広がったが、非生産的身分の武士に増収を図る才覚は乏しく、豪商からの借金の依存せざるを得なくなった。この安易なやり方は麻薬のように藩財政規律を蝕み、借金返済のためにまた借金を重ねるという悪循環から逃れられなくなった。佐賀藩の場合、フェートン号事件5年後の文化10年度収入のうち、借金の占める割合は46.3パーセントに達していた。
それに、佐賀藩固有の事情が重なった。まず長崎御番の重い負担。通常の経費に加えて臨時の負担も加重された。ロシア使節レザノフ一行が長崎に長期間停泊したときは、平時の数倍にも及ぶ大量の動員を余儀なくされたし、フェートン号事件後に幕命で武器の増強や防御施設の拡充に努めなければならず、重ね重ね多大な出費を強いられた。
また、第九代藩主鍋島斉直の浪費も財政難を加速した。ゲートン号事件で逼塞された斉直だが、その反動もあってか派手好みで贅沢三昧であり、我儘邦題で手が付けられず、10人の正・側室との間に46人の子供を設ける有様で、奥向き経費が異常に膨張していた。
こうして佐賀藩財政は、危機的状況の度合いを深めたのである。
 古賀穀堂
斉直の放蕩に手を焼いた佐賀藩の重臣たちは、世子である貞丸(のちの鍋島閑叟)に将来の希望をつないだ。貞丸はフェートン号事件6年後の文化11年(1814)斉直の嫡子として江戸屋敷に生まれ、利発だとの評判が高かった。そこで文政2年(1819)、藩校弘道館教授の古賀穀堂を御側頭に就け、6歳になった貞丸の教育を託した。
古賀家は渡来人の末裔で、穀堂の父古賀精里は天下に知られた儒学の大家だった。精里は弘道館の設立、充実に尽力したが、寛政8年(1796)47歳の時に幕府の学問所である昌平黌儒官に招かれた。外様藩の陪臣が幕府直参に抜擢されるのは異例で、精里の学識がいかに高く評価されていたかを示している。それは同時に、佐賀藩の学問水準の高さの証明でもあった。
佐賀の古賀本家を継いだ穀堂は、江戸に出て父の許しなどを得て頭角を現した。文化3年(1806)には「学政管見」と題する長文の意見書を藩主斉直に提出し、政事の根本は人材育成・士風刷新であり、それには学館を充実し、役人採用に当たっては学識を重視し、藩士一同特に高禄者の学館修学を奨励せよと力説した。さらに蘭学の重要性に言及して、「蘭学(中略)世界一統のことをきわめしむることなり、なかんずく、西洋諸国は天文・地理・器物・外科などの事は唐土万国よりも詳しく(中略)治国の精度等にもいろいろ面白き事ありて、経済の助けにも相成るべき。肥築(肥前・筑前)両国は長崎の御番勤めにて、万国の抑えをなさるることなれば、何れ蘭学の人なくて叶わぬことなり」と説き、自然科学はいうまでもなく政治・経済など社会科学の知識習得にも蘭学が有効であると論じた。いかにも佐賀藩らしい卓説である。
そのような経緯から幼い貞丸の教育を託された穀堂は、貞丸が成人するまでの12年間、江戸屋敷で貞丸への教育に心血を注ぎ、貞丸も修練によく応えた。




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