鍋島閑叟 ~神童貞丸~ |
そこに降ってわいたのがフェートン号事件である。佐賀藩は醜態を晒して頭から冷や水を浴びせられた。しかし、態勢の立て直しといっても、当時はひどい財政難で身動きが取れない窮状に追い込まれていた
それに、佐賀藩固有の事情が重なった。まず長崎御番の重い負担。通常の経費に加えて臨時の負担も加重された。ロシア使節レザノフ一行が長崎に長期間停泊したときは、平時の数倍にも及ぶ大量の動員を余儀なくされたし、フェートン号事件後に幕命で武器の増強や防御施設の拡充に努めなければならず、重ね重ね多大な出費を強いられた。 また、第九代藩主鍋島斉直の浪費も財政難を加速した。ゲートン号事件で逼塞された斉直だが、その反動もあってか派手好みで贅沢三昧であり、我儘邦題で手が付けられず、10人の正・側室との間に46人の子供を設ける有様で、奥向き経費が異常に膨張していた。 こうして佐賀藩財政は、危機的状況の度合いを深めたのである。
古賀家は渡来人の末裔で、穀堂の父古賀精里は天下に知られた儒学の大家だった。精里は弘道館の設立、充実に尽力したが、寛政8年(1796)47歳の時に幕府の学問所である昌平黌儒官に招かれた。外様藩の陪臣が幕府直参に抜擢されるのは異例で、精里の学識がいかに高く評価されていたかを示している。それは同時に、佐賀藩の学問水準の高さの証明でもあった。 佐賀の古賀本家を継いだ穀堂は、江戸に出て父の許しなどを得て頭角を現した。文化3年(1806)には「学政管見」と題する長文の意見書を藩主斉直に提出し、政事の根本は人材育成・士風刷新であり、それには学館を充実し、役人採用に当たっては学識を重視し、藩士一同特に高禄者の学館修学を奨励せよと力説した。さらに蘭学の重要性に言及して、「蘭学(中略)世界一統のことをきわめしむることなり、なかんずく、西洋諸国は天文・地理・器物・外科などの事は唐土万国よりも詳しく(中略)治国の精度等にもいろいろ面白き事ありて、経済の助けにも相成るべき。肥築(肥前・筑前)両国は長崎の御番勤めにて、万国の抑えをなさるることなれば、何れ蘭学の人なくて叶わぬことなり」と説き、自然科学はいうまでもなく政治・経済など社会科学の知識習得にも蘭学が有効であると論じた。いかにも佐賀藩らしい卓説である。 そのような経緯から幼い貞丸の教育を託された穀堂は、貞丸が成人するまでの12年間、江戸屋敷で貞丸への教育に心血を注ぎ、貞丸も修練によく応えた。 |