藤原氏の成立
 ~鎌足死去~
 


 鎌足死す
天智8年(669)10月16日、鎌足は自邸で死去した。「日本書紀」は、墓に碑が建てられ、19日に天智が鎌足邸に行幸し、蘇我赤兄に恩詔を宣させて、金の香炉を下賜したとある。
「藤氏家伝」の方は、56歳という享年と天智の慟哭、そして廃朝を語り、同じく19日に天智が宗我舎人を鎌足邸に遣わして恩命を長々と宣させている。次いで公卿百官の嘆く様子と、葬送の有り様、薄葬の遺言を語る。そして翌年の閏9月6日に行われた火葬の様子と、その際の奇瑞が語られている。しかし、道昭や翌年の持統の火葬よりも30年以上も前のこの年に、本当に火葬が行われたとは考え難い。「藤氏家伝」は最後に、鎌足が仏教を尊んでいたこと、維摩会を創始したこと、元興寺に寄進を行ったこと、百済の沙宅紹明が碑文を造ったこと、を語って終わる。
なお、天智が即位した際の「浜楼の置酒」の後に、後日譚が語られている。大海人皇子が、はじめ鎌足の処遇が高いことを以て親しく思っていなかったものの、これ以降は親しんだ。そして壬申の乱の勃発に際して、鎌足の不在を嘆いたというのである。これも実際にあったかどうかはともかく、鎌足が生きていれば壬申の乱は怒らずに済んだというのは、当時の支配者層に共通する想いだったのだろう。
 鎌足の功業の真偽
鎌足の「功業」は、その実態としては不明な箇所が多い。多分に子孫によって脚色された功績も存在すると思われる。それはあたかも、天智(中大兄王子)の影の存在としての鎌足の存在感という事になろう。
ただし、律令制下の藤原氏が自己の栄達の根拠として、鎌足の「功業」を最大限に利用した事は確かである。鎌足が死の直前に賜わったとする大織冠を正一位と解釈し、その蔭位を最大限に利用するような蔭位制を創出して、その後の藤原氏の高位につなげたことも、確実なところである。いつの間にか、鎌足を贈太政大臣と替えてしまった事も推測できる。
言い換えれば、律令制下の不比等以下の藤原氏の側から、自己の政治的地位の根拠として、「大化改新」前後の鎌足の「功業」が創作され、偉大な藤原氏創始者として鎌足像が形成されたとも考えられるのである。いうなれば、藤原鎌足像というのは藤原氏の偉大な祖先伝承というわけである。


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