藤原氏の成立
 ~藤原氏の成立~
 


 鎌足病に倒れる
天智8年(669)5月、この年も鎌足も参加して、山科野で薬猟が行われた。鎌足はこの時はまだ病は重くなかったようだが、その年の秋の事として、鎌足の家に落雷があったという記事がある。やがて鎌足が病悩し、死去することの前兆記事だろう。
鎌足がいつ、病に倒れたかは史料には見えない。「藤氏家伝」は冬10月とだけ記して、鎌足が危篤になった事を伝える。そして、天智が次第に見舞いに訪れ、天帝に命乞いを行ったことを記している。「日本書紀」でが、10月10日に訪れたことになっている。続けて、憔悴した鎌足に、天智が望みを申すよう、命じている。ここに語られている「積善余慶」というのは中国南北朝時代の「文選」に見える句であるが、これが遥か後年まで藤原氏が使用する句となるのである。一方「藤氏家伝」では、天智が下問したのは翌日の事となっている。これでは、天智は2日続けて鎌足邸を訪れたことになる。
鎌足の報国は、「日本書紀」「藤氏家伝」とも、ほぼ同文に薄葬を求めている。いずれにも、「軍国に務無し」「軍国に益無し」と、「軍国」という語が用いられている。これも「文選」に見える語であるが、百済救援依頼の国際情勢を踏まえた表現であろうことは、容易に想像できる。
 鎌足、太政大臣に?
天智が鎌足邸を訪れたとされる5日後の10月15日、天智は大海人皇子を鎌足の許に遣わした。「藤氏家伝」では、その際、「前代以来の執政の臣で、功労・才能の点で鎌足に比肩する者はいない。自分(天智)だけでなく、未来の天皇も鎌足の子孫を恵もう、鎌足を本来就くべき官職に任じよう」という恩詔を伝えさせたことになっている。
もちろん、これは、後世の藤原氏の特権的な地位を、その成立にまで遡らせて天智に語らせた、仲麻呂の主張である。後世、「策書」や「しのびごとの書」なども作られ、藤原氏の栄達の根拠として主張されていくことになる。ただ、不比等以降の藤原氏も、実際にはそのようになっていたのだから、あながち滑稽無等な主張でもなかったともいえる。「藤氏家伝」ではこれに続けて、鎌足に織冠を授けて、太政大臣に任じ、改姓して藤原朝臣としたとある。これだと、鎌足が就いたのは太政大臣という事になる。
この「藤氏家伝」が編まれた天平宝字4年(760)の正月に、仲麻呂が大師(太政大臣)に任じられていることを勘案すると、仲麻呂が自己の大師任命の根拠として、この文章を造作したと考えられる。それは同じ天平宝字4年8月に、すでに太政大臣が贈られていた不比等を、太政大臣では不足だというので淡海公に封じ、武智麻呂・房前にも太政大臣を送っていることと軌を一にしたものであろう。
 藤原氏を賜る
「日本書紀」には、鎌足家に遣わされた大海人皇子が、最高位である大織冠と「大臣位」を授け、藤原姓を賜ったとある。ここにおいて、内大臣という職位名が初めて登場したのである。豪族層の代表という地位と伝統とを有していなかった鎌足が、大王との個人的結びつきによって大臣に上ったという事になる。ここに藤原氏という、天皇家との身内的結合を基本戦略に置いた氏族が成立したとされることの意義は大きい。その意味では「内大臣」という、天皇権力と密接に結合した地位と、王権と密着した「藤原氏」とが同時に成立したとされることは、その後の日本政治史を考えると、誠に象徴的である。
ただし、本当にこの時、氏族としての藤原氏が成立したのか、それとも鎌足に対する褒賞的な称号が贈られたのか、はたまたすべてが後世の藤原氏の主張に基づく文飾なのか、慎重に考える必要がある。史実として、本当に鎌足が「大臣」に上ったのか、大織冠が令制の正一位に相応するものなのかも、大いに疑問である。「内臣」に「大臣の位」を授けたことによって、自動的に「内大臣」という職名で通称された、というのも変な話である。ここには、鎌足の地位を、現実的な自らの地位の上昇に最大限に利用しようとした藤原氏の後世の主張が反映されているのは確実なのである。
「藤原」というウジ名は飛鳥北方の地名に基づくものと考えるのが有力であるが、他の木にまとわりついてその養分を吸い取り、自らを繁栄させていく「藤」をその名とするというのは、後世の藤原氏の存在形態を考えると、誠に象徴的な名である。

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