藤原氏の成立
 ~百済滅亡と国際情勢~
 


 百済の滅亡
斉明6年(660)百済が滅亡した。百済遺臣の鬼室福信の要請にこたえて、「海表の政」つまり百済復興軍の派遣へとつながるのだが、「日本書紀」「藤氏家伝」ともに、鎌足の関与は語られていない。
斉明は斉明7年(661)に死去し、中大兄王子が称制(大王位につかないまま政事を聴くこと)を行うが、それに続けて「藤氏家伝」に、中大兄王子が鎌足について、次のように侍臣に語ったという記事がある。
「唐には魏徴、高句麗には蓋金、百済には善仲(鬼室福信)、新羅にはユ淳という名臣がいるが、それらも鎌足には遠く及ばない」というものである。こうなると父祖の賞揚を越えて、どうしても夜郎自大に見えてしまう。
ところで、中大兄王子の治政では、「藤氏家伝」に鎌足との関係が語られている。二人は仲が良く、義においては名臣であるが、礼においては師友、つまりお互いに先生のように尊敬し合う友人であり、出ては同車し、入っては敷物を接し膝を突き合わせる。政事は寛大で慈しみ恵み、徳を天下に広げ、海外を手懐ける。朝鮮諸国は懐き、百姓は安寧である、というものである。実際には天智2年(663)に白村江で大敗を喫しているのだが、ここではそれには全く触れていない。
また、高句麗王から鎌足に宛てて書状が贈られたことを語る。内容は、鎌足の仁による徳化が遠方まで及んでおり、国の棟梁としての鎌足の存在を遥かに聴いて、喜んでいるというもので、とても本当にあった話とは思い難い。ただ、「東大寺剣物帳」に見える「赤漆槻木厨子一口」は百済の義慈王が鎌足に進上したものとされており、これも鎌足の全方位外交を反映した生地なのだろうと思われる。
 天智天皇即位
「日本書紀」では天智3年(664)10月のこととして、唐の百済鎮将劉仁願が筑紫に遣わし、文書をもたらした郭務宗に対して、鎌足が沙門智祥を遣わして物を賜ったという記事がある。対新羅戦争への協力を迫る唐に対して、曖昧な返答を行ったものの、新羅寄りの外交姿勢を明確にすることを恐れた鎌足が、両面外交を模索している姿が読み取れる。
この年から、防人と烽の設置、水城や古代山城の構築と、中大兄王子と鎌足は、倭国防衛体制を強化しながら、甲子の宣に代表される国政改革を断行していた。
そして天智7年(668)正月、中大兄王子は近江大津宮で即位した。(天智天皇)「藤氏家伝」では、「朝廷には事もなく、遊覧を好んだ。人には菜色(飢えている様)が無く、家には余畜がある。民は太平の代を称えた」と、その即位を寿いでいる。だが、当時の情勢はとてもそんな平穏なものではなかった。
その年の「日本書紀」の7月の記事に、宴の記事の後、「時の人」が、「天命(天皇の世)が終わろうとしているのであろうか」と言ったという記事である。天智は即位の直後に、王統交代を噂されていたということになる。これに関連して「藤氏家伝」は、天智即位直後のこととして、「浜楼」の「置酒」において大海人皇子が長槍で敷板を刺し貫き、天智が大海人皇子を殺そうとしたが、鎌足が固く諫めたので、天智がこれを止めたというやりとりを語っている。
この記事は、後年の壬申の乱を引き出す記事として、ここに置かれたものなのだろうが、それを差し引いても、この時期の国際情勢は、高句麗滅亡後の唐と新羅の対立を巡って、またもや風雲急を告げていた。
 鎌足と新羅の友好
この同じ天智7年9月、12年ぶりに新羅から倭国へ使節がやって来た。新羅としては、唐と険悪な関係となっているこの時期、背後の倭国と友好関係を結ぶことは、国際戦略上、不可欠であったに違いない。鎌足から新羅の功臣金庚信へ、天智から文武王へ、それぞれ船が贈られていることは、中大兄王子と鎌足が新羅との友好関係も築こうとしていたことを示している。
「藤氏家伝」では、それに続けて、鎌足が「旧章を損益」して律令を刊定したことを語っている。これをいわゆる「近江令」の制定と解釈する説もかつてはあったが、現在では体系的な法令としての近江令の存在を否定する説が有力である。律令という法典が、「周の三典」や「漢の九篇」など、中国の古典を損益して編纂できるものではないことを、この文章は無視している。以下にも中国かぶれの仲麻呂らしい作文である。

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