藤原氏の成立 ~改新政府と鎌足~ |
軽王がどれほどの主体性を持ってこれらの政変に参画したかは不明であるが、軽王というのは、父も祖父も即位したわけではない「三世王」に過ぎない。この点、前大后として即位得た皇極とは、同母弟とはいっても同列に論じるわけにはいかない。 やはり、これまでの大王位継承の流れから見ていく限りでは、主導権は中大兄王子と、その背後にある鎌足が握っていたと考えるべきであろう。当時の慣例として、未だ20歳に過ぎない中大兄王子が即位するわけにはいかず、また古人大兄王子が存在するなかでの世代交代を避けたものと考えられる。 その後、「日本書紀」も「藤氏家伝」も、中大兄王子を皇太子としたと語る。皇太子の地位が、この時期に成立していたとは考えられず、文飾であろう。
「日本書紀」は鎌足の地位について、「大錦冠を授けて内臣とし、封を若干戸増やした。鎌子連は忠誠心があり、宰臣としての威勢によって官司の上に立った、ために進退存続の計は支持され、事は成った」と、「魏志」武帝紀の文を引いて説明している。 「藤氏家伝」では、「国家が安きを獲たのは、まことに公(鎌足)の力に頼ったものである。集権国家が実現したのも、またこの挙にある。そこで大錦冠に拝して内臣を授け、二千戸を封した。軍国の機要は、公の処分に任せよう」という孝徳の詔を載せている。激動の東アジア情勢に対して、鎌足の補政によって乗り出そうという意欲の現われであろう。ただ、これらの文章は、後世の藤原氏の主張に基づくものである可能性も高い。
もちろん、それぞれに鎌足は主体的に関与していたのかもしれないが、史料の前面に登場しないというのは、まさに「内つ臣」に相応しい姿であるといえよう。 鎌足が史料に姿を現すのは、孝徳最後の年である白雉5年(654)のことである。「日本書紀」には白雉5年8月という年紀を用いて、鎌足の功績が武内宿禰に比肩するというので、柴冠に拝し、封8千戸を増したと記している。 柴冠というのは令制の三位に相応する冠位であったが、ここで鎌足は上級官人としての地位に上がったことになっている。また、武内宿禰が登場するのは重要である。実際には武内宿禰の方が鎌足や蘇我馬子をモデルとして造作された伝説上の人物であるとみられているが、ここでも鎌足と武内宿禰の関連が語られているのである。 この後、孝徳が死去し、皇極が重祚するが(斉明天皇)、その時の事として「藤氏家伝」には、斉明天皇が中大兄王子に庶務を委ねたこと、朝鮮諸国から「朝貢」が絶えなかったこと、百姓が太平を謳歌したことにょって、鎌足を大柴冠に遷し、公の爵位に進め、封五千戸を増したという記事がある。 |