藤原氏の成立
 ~蘇我宗本家の滅亡~
 


 蘇我陣営の壊滅
葛城王子たちは蘇我氏の氏寺であった飛鳥寺に入り、砦として準備すると、「藤氏家伝」では「公卿大夫」「日本書紀」では「諸皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・供・造・国造」が悉く付き従ったとある。蘇我蝦夷も甘樫丘の「上の宮門」から、この様子を望見していたであろう。これはひとえに、入鹿の志向した権力集中が、支配者層内部において広範な支持を得られるような性格のものではなかったことによるものであろう。
葛城王子が入鹿の屍を蝦夷に引き渡すと、東漢氏が族党を皆集め、武装して陣を張ろうとした。葛城王子は将軍の巨勢徳陀を蝦夷邸に遣わし、東漢氏を説得させた。
「日本書紀」によると、「天地開闢の初めから君臣の区別がある事を族党に説明させた」とあり、「藤氏家伝」によると、「吾が国家の事は汝らには関わりない。どうして天に違って抵抗し、自らの族が滅びることを選ぶのか」というものである。日本書紀よりも藤氏家伝の言葉の方が、実際に語られたものに近い可能性が高い。
すると蝦夷の陣営の中にいた高向国押も、東漢氏を説得した。「我らは君太郎(入鹿)のためにきっと殺されるであろう。大臣(蝦夷)も今日明日のうちに、直ちに誅殺されることは必定である。それではいったい誰の為に空しい戦いをして、皆処刑されるのか」と言って剣を解き弓を投げて去ると、東漢氏達もこれに従って逃げ去ったのである。
 勝者によって書き換えられた歴史
これで本宗家の命運は尽きた。蝦夷の最期は「藤氏家伝」に13日の事として、「豊浦大臣蝦夷は、自らその第で死んだ」と見える。「乱れが濯ぎ払われ、狼はいなくなった。人々は喜び踊り、皆、万歳を称えた」と続く。これによると蝦夷は自刃した事になるが、「日本書紀」にはこの事は見えず、「蘇我臣蝦夷らは誅殺されるにあたって、天皇記・国記・珍宝をすべて焼いた」という独自の記事が載せられている。
この「天皇記・国記」は、推古28年(620)に蘇我馬子と厩戸王子が録したとある国史の事であるとされている。船恵尺が、焼かれている国記を取り出して葛城王子に献上したとあるが、これが史実であるにしても、後年に完成した「日本書紀」との関連は明らかではない。
ただ、馬子や蘇我系の厩戸王子によって撰修されていた国史が、蘇我氏を中心としたものであったであろう事は言うまでもないし、それが廃業されて、今度は藤原氏中心の国史が「日本書紀」として完成されたであろうことを考え合せると、まさに「歴史は勝者によって作られる」という金言を象徴する出来事であった。
 中臣氏の飛躍
この後、「藤氏家伝」には葛城王子と鎌子の言葉が記されている。まず葛城王子が、「絶えようとしていた綱紀を振興し、衰退していた国運を復興したのは、実に君(鎌子)の力によるものである」と、その功業を賞揚すると、鎌子がそれに応えて、「功が成ったのは葛城王子のおかげであって、臣(鎌子)の功績ではない」と、謙譲の美徳を示している。これは、中国古代の「史記」の甘茂伝や「戦国策」秦策を基にした作文であるが、「藤氏家伝」という書の主張を表すものでもある。
ともあれ、このクーデターの成功によって、神祇を管掌する中臣氏の鎌子は、単なる宗教官人から脱皮し、国家の中枢へと、その歩みを始めた。鎌足という名も、それと軌を一にして称し始めたのであろう。そして葛城王子もこのころから「中大兄王子」と称されるようになったはずである。
ただし、鎌子が藤原氏へと昇華するまでには、激動の北東アジア情勢をはじめとする幾多の困難が待ち受けていた。それらを一つ一つ切り拓いていって、はじめて「藤原鎌足」が誕生することになる。

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