鎌倉党の発祥 ~鎌倉党~ |
「吾妻鏡」の記事によると、大庭景親に従った俣野五郎は景久、長尾新五・同新六は為宗・定景とある。そして「保元物語」によれば、景能・景親兄弟は、「鎌倉の源五郎景政の四代の子孫、大庭庄司景房の子」と名乗っている。つまり、大庭氏は鎌倉景正の子孫だというのである。 景親の弟景久は俣野を名乗った。また、景親の兄景能は頼朝のもとに馳せ参じたが、景能と行動を共にした豊田五郎景俊もまた彼らの弟であった。この大庭氏(俣野・豊田)と共に鎌倉党であった長尾氏は、村岡源五郎忠通の五人の子の中の、五男権五郎景政がその祖であるという。また、香川氏も鎌倉景正の子孫と名乗っており、鎌倉党はいずれも鎌倉権五郎景正の子孫を名乗った武士の一族であった。
忠道 高望五男良文、村岡五郎と号す。第二子忠道、村岡二郎大夫を号す。相模大碌となる。従五位下。源頼光朝臣参乗の四天王の内第三なり。法性寺(藤原忠平)関白以来、世の人は忠の字を改めてサダ道と賞す。 相州 三浦 杉本 朝夷 大多和 長江 葦名 筑井 矢部 真田 石田等 鎌倉 梶原 長尾 長江 小坂 香河 柳下 金井等 房州 安西 安東 神余等 一族の先祖なり 忠常 角田 天羽 先祖 平良文の次男忠通は、源頼光の四天王の一人で、関白藤原忠平の名を憚って「サダ道」と改めたとある。その忠通は相模国三浦氏以下各氏の祖先であるというものである。三浦から石田までの各氏が三浦党、鎌倉から金井までの各氏が鎌倉党の武士である。 |