鎌倉党の発祥
 ~鎌倉党~
 


 源平合戦時における鎌倉党
「平家物語」の古い形を伝えていると言われる「延慶本平家物語」は、治承4年(1180)8月23日、相模・武蔵両国の軍勢を率いた平家方の大将大庭景親が、伊豆国で挙兵した源頼朝の軍勢を迎え討つために、相模国石橋山へと向かった描写の中で、「相従輩には、大庭三郎景親・舎弟俣野五郎景尚・長尾新五・新六・八木下又五郎・香川五郎以下、鎌倉党一人も不漏けり」とある。この箇所は「源平盛衰記」では「相従ふ輩、舎弟俣野五郎景尚・長尾新五・新六・八木下又五郎・香川五郎以下、鎌倉党一人も漏れず」とある。大庭氏を始め、俣野・長尾・八木下・香川の諸氏が鎌倉党と言われていたことがわかる。
「吾妻鏡」の記事によると、大庭景親に従った俣野五郎は景久、長尾新五・同新六は為宗・定景とある。そして「保元物語」によれば、景能・景親兄弟は、「鎌倉の源五郎景政の四代の子孫、大庭庄司景房の子」と名乗っている。つまり、大庭氏は鎌倉景正の子孫だというのである。
景親の弟景久は俣野を名乗った。また、景親の兄景能は頼朝のもとに馳せ参じたが、景能と行動を共にした豊田五郎景俊もまた彼らの弟であった。この大庭氏(俣野・豊田)と共に鎌倉党であった長尾氏は、村岡源五郎忠通の五人の子の中の、五男権五郎景政がその祖であるという。また、香川氏も鎌倉景正の子孫と名乗っており、鎌倉党はいずれも鎌倉権五郎景正の子孫を名乗った武士の一族であった。
 鎌倉権五郎
室町時代、長尾氏の家伝には桓武天皇の第五皇子高望王の五代末孫の村岡左衛門尉到経に男子がいなかったので、叔父到成の次男景正を養子にして家を継がせたとある。家伝はその景正が名を忠通と改め、その子に為通・景成らがいたとする。つまり景政は父景正と同じような名であったというのである。「尊卑文脈」ではこの忠通を良文の子忠道とし、その子に為道(為通)がいた。また、近世の系図によると忠通を「鎮守府将軍・頼光四天王のその一なり」とするものがある。また「諸家系図慕」に収められた「平群系図抜粋」は「続群書類従」系図部に収載されているが、次のような記事があるという。
忠道
高望五男良文、村岡五郎と号す。第二子忠道、村岡二郎大夫を号す。相模大碌となる。従五位下。源頼光朝臣参乗の四天王の内第三なり。法性寺(藤原忠平)関白以来、世の人は忠の字を改めてサダ道と賞す。
相州 三浦 杉本 朝夷 大多和 長江 葦名 筑井 矢部 真田 石田等 鎌倉 梶原 長尾 長江 小坂 香河 柳下 金井等
房州 安西 安東 神余等 一族の先祖なり
忠常
角田 天羽 先祖
平良文の次男忠通は、源頼光の四天王の一人で、関白藤原忠平の名を憚って「サダ道」と改めたとある。その忠通は相模国三浦氏以下各氏の祖先であるというものである。三浦から石田までの各氏が三浦党、鎌倉から金井までの各氏が鎌倉党の武士である。


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