ドキュメント執権北条氏 1、鎌倉幕府の草創と北条氏 ~頼朝と政子の結婚~ |
しかし20代半ばに差し掛かったころ、流人の頼朝にもようやく春が廻ってきた。伊豆久須美荘の領主伊藤祐親の三女八重と恋仲になったのである。八重の兄伊藤佑清が、二人の間を取り持ったらしい。佑清は頼朝の乳母比企尼の女婿で、義母比企尼の命で頼朝に近侍していたのである。 そして頼朝と八重との間に、やがて男子が生まれた。千鶴丸と名付けられた。 しかし幸福は長くは続かなかった。京都大番から帰郷した伊藤祐親が、このことを由々しきことと思ったのである。当時はまだ平家全盛の頃。その平家の聞こえを憚った祐親は、二人の間を裂いた。 千鶴丸は簀巻きにされて狩野川の淵に沈められた。八重は伊豆江間郷の小領主、江間小四郎のところに嫁がされた。そして祐親は、頼朝を殺そうとまでした。 八重の兄の佑清の機転で、かろうじて難を逃れた頼朝は、伊豆西岸寄りの北条時政館に逃げ込んだ。このとき、時政自身は在京していたようだから、頼朝が頼りにしていたのは長男の宗時だったようだ。「吾妻鏡」はこのことを安元元年(1175)9月のこととしている。
この二人の間に、やがて姫が生まれる。後の大姫である。治承2年、3年ころのことである。だがこのことは、狭い伊豆国内にはすぐに広まり、在京中の時政の耳にも入ったらしい。 当時はまだ平家全盛が続いていた。伊藤祐親同様に時政も平家の聞こえを憚ったようだ。二人の間を裂いて政子を館内に閉じ込めたとも言い、そ知らぬふりをして政子を山本兼隆のもとに嫁がせたともいう。 しかし政子はしたたかであった。時政館を抜け出して、深夜を冒して頼朝のもとへ走ったのである。平安公卿などの姫君にはない強さが、東国武士の娘政子にはあった。この政子の強さが、時政を押し捲り、遂に二人の結婚を時政に認めさせてしまったのである。
「北条四郎時政は、上には世間を怖れて兼隆を婿に取ると雖も、兵衛佐(頼朝)の心の勢を見てければ、後には深くたのみてけり。兵衛佐も又賢人にて謀する者と見てければ、大事を為さんずる事、時政ならでは其の人なしと思ひければ、上には恨むる様にもてなし、相背く心なかりけり」 頼朝と時政との間に、強い信頼関係があったというのだが、これが本当だったのかは疑わしい。安元元年の伊藤祐親と治承2年ころの北条時政と比べると、状況はさほど変わらなかった。だが、安元元年当時は平家全盛に一点の陰りもなかったのに対し、治承元年6月には鹿ケ谷の変があり、既に反平氏の動きが始まっていた。そして治承3年6月には清盛の娘で近衛基通の養母の平盛子が死んでおり、同7月29日には清盛の長男重盛が死んでいる。そろそろ平氏衰亡の兆しが、見る人の目には見え始めていたかもしれない。 もともと東海道沿いの国府近くにいた時政である。京都政界の様相にも詳しかったと思われる。そして最近の上京で自ら京都の様子は見聞し把握していたばかりであった。 娘政子の結婚事件を契機として、密かに頼朝に一身を賭ける決意をしたかもしれない。北条氏興隆の端緒となる頼朝・政子の運命の芳契には、その基礎に時政の野望が秘められていたかもしれない。 |