開国と佐賀藩
 ~アヘン戦争の衝撃~
 

 アヘン戦争
佐賀藩が高島流砲術を正式採用したのが天保11年(1840)。奇しくもこの年から天保13年に賭けて繰り広げられたアヘン戦争は、東アジア情勢に一転機を画した世界史的大事件であった。戦勝したイギリスは東アジア世界に足場を築き、敗北した清国(中国)では以後1世紀にわたる半植民地状態への転落が始まった。
その背景にはいわゆる産業革命があった。18世紀末にイギリスで蒸気機関が発明され、産業に機械力が導入されて生産性が飛躍的に向上し、イギリスは「世界の工場」となった。その勢いは西ヨーロッパ・北アメリカへと拡大した。産業革命の産物である蒸気軍艦と鉄製大砲を手に入れた欧米勢力は、みるみる強大となり、商品市場の開拓と拡大を求めて世界各地へ押し出していった。その延長線上にアヘン戦争が勃発したのである。
産業革命にともなって工場労働が普及すると、イギリス人の間で紅茶嗜好が流行した。中国茶への需要の高まりで対清国貿易ではイギリス側が大幅な赤字となり、その穴埋めにイギリスは植民地インド産のアヘンを輸出した。その結果、清国人のアヘン中毒が激増して貿易収支が逆転、そこで清朝はアヘンの持ち込みを禁止した。ところがイギリス政府は、自由貿易を阻害したとして艦隊を派遣し、広東・上海などを攻撃した。清朝は屈服し、香港割譲・広州など五港開港・賠償金支払いという屈辱的条約を押し付けられて、半植民地状態への転落が始まった。逆にイギリスは香港を奪取して格好の根拠地を獲得した。かくて東アジア国際環境は激変し、欧米列強の優位状況が出現した。いまや西欧産業革命に発した世界史の荒波が、日本の目前にも打ち寄せてきたのである。
 日本への衝撃
戦況は阿蘭陀風説書や唐舟風説書で刻々と日本に伝えられ、強烈な衝撃を及ぼした。かねて日本知識界では、お隣の中国を聖賢(孔子・孟子)を生んだ文化先進国として伝統的に畏敬してきた。その大国がイギリスの凶暴な軍事力で手もなく打ちのめされたのを目の当たりにして、心ある為政者や識者は「明日は我が身」と深刻な恐怖感に襲われた。
長崎で戦争の情報にいち早く接した高島秋帆は、洋式砲術の採用が急務である旨を長崎奉行に上申した。それは老中水野忠邦に伝えられ、天保12年に幕府当局は高島一門を江戸に招いて郊外徳丸原で高島流砲術の演習を挙行させた。その結果、幕府は幕臣下曾禰金三郎と伊豆韮山代官江川太郎左衛門(英龍)に高島流の習得を命じたが、佐賀藩に比べてほぼ10年遅れだった。
さらに翌天保13年、アヘン戦争の二の舞を警戒した幕府は、文政8年(1825)以来の異国船打払い令を17年ぶりに撤廃した。異国船との摩擦が不慮の戦争を引き起こすのを避けようとしたのである。代わりに薪水給与令を発して異国船への対応を緩和し、事情を質して穏やかに帰帆を促し、必要な場合には食糧・薪水を給与してもよいとした。同時に江戸湾防備の調査に着手するとともに、諸大名には自領の沿岸警備強化を命じた。日本・琉球海域へのフランス・イギリス・アメリカ合衆国などの異国船の到来や接岸は、ますます頻繁になっていた。幕府は佐賀藩・福岡藩に対して長崎防備強化方策について改めて諮問したのである。




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