昭和海軍の軍政と井上 ~濁流に抗する~ |
昭和海軍軍政という舞台は怪奇なまでに異常なものだった。もし昭和軍政が明治大正を通じての山本権兵衛、斎藤実、加藤友三郎と言った理性豊かな先人たちが築き上げた近代的伝統を受け継いでいたならば、井上の合理的知性、シャープな先見性、正を踏んでの何物をも恐れない剛毅さといったものは、対して人の眼を引くことなく、後世の眼からも、英雄的存在としてではなく、日本海軍人物史の多くのエースの一人として数えられる程度の者だったかもしれない。 昭和海軍軍政は、陸軍のそれと近い汚濁の水を流したかに思える。後世、井上を英雄視するのは、そうした濁流に敢然と抗争した姿をとらえてのことではないだろうか。 このような濁流の造成は、「井上不在」のうちに行われたものがほとんどである。その濁流の造成・増勢の時期が、井上が海軍大臣の政治幕僚としての配置(次官、軍務局長、軍務一課長等)に不在という意味である。濁流の造成は、井上が在外勤務中に、民間人が計画し発足したものであった。それがいつの間にか海軍部内に浸透していることに海軍当局が気付いたのは遅すぎた。しかもこの浸透工作の主役は、米ハーバード大学のジョージ・H・ウィルソン教授などから20世紀世界ファシズム運動の元凶とみられている北一輝であった。
巻一「国民ノ天皇」の冒頭項目を「憲法停止」とし、「天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ、両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲ布ク」というもので、まぎれもなく軍事力動員を前提としていたのである。軍事力を動員するのには陸海軍内に革命思想の浸透が必要になる。 同じく過激性に満ちた中間各巻を飛ばし、最後の巻八「国家ノ権利」の中の「開戦ノ積極的権利」の項を見ると、まさに対米英開戦の緊要性の主張である。「即チ当面ノ現実問題トシテ印度ノ独立及ビ保全ノ為メニ開戦スル如キハ国家ノ権利ナリ」としている。 北らの企図は、日本改造だけではない。話がヴェルサイユ会議の事に及んでいるように、世界革命といえるものでもあった。北の脱稿近くに上海に密航した大川周明らが貰い受け、歳末に北も帰国し、よく正月5日東京入りした。 そして奇妙な事が起きた。北は上海で特別上等に装丁してきた法華経典を海軍中将小笠原長生を介し皇太子に献上した。当時小笠原は東郷元帥を総裁とする東宮御学問所の幹事だったし、東郷も小笠原も熱烈な日蓮信者だった。 陸海軍を動かすため用いた北の最主要手段は青年将校たちに対する思想的浸透だった。病気で少尉で陸軍を辞めたばかりの西田悦と海軍兵学校在学中の藤井斉とが代表選手にされ、両人を介して青年将校主導での陸海軍の思想改造が企てられた。
青年将校達に先輩軍人を説得できるほどの思想的素養があるわけではなく、絶えず北ら一派の指導を受け続けなければならない。だから東京に近くて、青年将校が多く集まっている霞ヶ浦航空隊が対海軍工作の最有力拠点とされた。 突き上げに乗る上層についていえば、虚栄心の強い威張りたがりや的人物ほど乗せられた。本質的に北らの思想はニーチェの「力への意志」の哲学である。力を誇示したがる人物が突き上げ対照に選ばれるのは自然の勢いだった。後年、俗に艦隊派とか軍令系といわれた、加藤寛治、末次信正、高橋三吉など、青年将校達に持ち上げられて得意然の人物が多かったのは紛れもない事実だったが、これは艦隊というものがあくまでも力の発揮を本位としるものだからではないか。 それとは対照的に、条約派とか軍政系といわれた、岡田啓介、山梨勝之進、堀悌吉等の周囲に青年将校達が寄り集まったという話は聞かれない。井上成美ももちろん、これらに分類される。軍政というものは本来視野の広い合理主義本位でなければならず、「力への意志」哲学ではぶち壊しになるものだということの一つの証査といえる。 思想的な精神的な新党にはそれ相当の年月を要するものである。大正デモクラシー政治の失策が劇的に出てからでないと、「日本改造法案大綱」的なものは売り込みにくい。ところが、大正から昭和に年号が変わってから3か月後、大正デモクラシーはまずその外交政策の一大試練にぶち当たった。他方、ヨーロッパでは「力への意志」のニーチェ哲学がファシズムやナチズムの形で急激に人心をとらえつつあった。北らにとって絶好の内外情勢が展開していたのである。 |