山本権兵衛が作った海軍 ~巨砲・大艦主義~ |
さらに翌明治18年3月、ロシア軍とアフガニスタン軍がペンジュウで衝突した。イギリスは英領インドに危機が迫ったとみなし、唯一イギリス海軍がロシアを攻撃できる地点、ウラジオストックに狙いを定め、前進軍港設営のため済州島の巨文島を占領した。 ロシア海軍の「モノマフ」は、横浜に親善入港していたが、停泊中のイギリス商船に砲口を向けた。直ちに「筑紫」艦が割って入り、横須賀に避難させた。(横浜事件)さらに明治19年、清国の戦艦「定遠」など四隻が長崎に入港、乗員が市民に暴行を働く事態が発生した。(長崎事件) 明治24年、第二回帝国議会において樺山資紀海相は「蛮勇演説」をなした。薩長勢力こそが日本の近代化を成し遂げたと言い切り、その指導の下で日本の一層の建艦努力を促した。 アヘン戦争とアロー号戦争の間に起きた太平天国の乱の鎮圧には淮勇と呼ばれた安徽省の部隊が活躍した。李鴻章らが率いた淮勇の部隊はそのまま北京と天津を含む直隷省に進出した。彼らは洋務派と呼ばれ、朝廷に重きをなした。李鴻章は天津に常駐する北洋大臣に任じられ、華北全部の外交と軍事を担当した。後にこの軍隊は「北洋軍閥」と呼ばれるようになるが、「北洋水師」と呼ばれた海軍をも持った。 広州に駐在する南洋大臣も、華南において同様の機能を持ち、南洋水師を持ったが、小規模であった。北洋大臣は「首都防衛」も担当し、アロー号戦争の経験から渤海湾を扼する旅順と威海衛軍港を根拠地とした。 洋務派は洋務運動を主導した。この運動は1863年から1888年まで、即ちアロー号戦争終了から光緒帝親政開始までとされる。洋務派は上海に江南機器局、天津に機器局を設立し、造船工業を興そうとした。各省には西学局を設け、機械・軍事学を研究させた。洋務運動とは軍隊の近代化を目論んだものであるが、中心は「機械の近代化」であった。 だが、北洋水師の海軍将校の大半は老齢の陸軍上がりであり、機関や砲術等の専門的な分野は外国人を招致した。海軍将校団としてのまとまりはなく、陸軍の下風にたつ水膨れ体質であった。
「巨砲」「大艦」主義は、リサ海戦(1866)の戦訓から生じた。この戦争では、イタリアが普墺戦争勃発に乗じて、ドイツの側に立ち参戦すると、アドリア海中央のリサ島の争奪をめぐりオーストリアとの間で海戦が生じた。イタリア艦隊の旗艦は巡洋艦「レディタリア」であったが、オーストリアの砲艦「フェルディナント・マックス」はいきなり突進し、「レディタリア」の長い横腹に衛角をもってズブリと突き刺し、撃沈した。衛角とは艦首の水面下にある槍のような突起物である。 この後イタリア艦隊は四分五裂、大敗を喫した。オーストリア艦隊司令官テゲトフの快勝譜であり、実は新技術の敗北でもあった。イタリア主力艦艇は15ノットの快速と鉄張りを誇ったが、11ノットのオーストリア鉄骨木皮艦に敗れたのだ。砲撃戦もあったが、近距離になっても双方とも命中させることはできなかった。イタリア艦は木造鉄張りであったが、互いに弾丸は命中せず、装甲が役立つことはなかった。 リサ海戦の結果は、各国海軍当局に砲戦そのものに絶望感を抱かせた。リサ海戦の勝者テゲトフは、「鉄の心を持つ提督に率いられた木の艦隊は、木の心を持つ提督の鉄の艦隊に勝利する」と謳われ英雄となった。これ以降、全ての軍艦は衛角を持つようになった。 「定遠」「鎮遠」は実はリサ海戦の戦訓に範を置いて建造された。衛角戦術で戦われた場合、艦の速度は無関係であって、むしろ定位置で旋回することが鍵であり、接近してきた艦に対して大口径砲を発射しながら突進すれば敵艦は動揺し、そのまま衛角で突き刺せると予想したのであった。 このため12インチ大口径砲四門を両舷に装備し、全門前方に発射できるようになっていた。後世から見れば、まことに奇妙な主砲配置であるが、各国は似たような艦を保有していた。ところがこういった艦が上手くいったかどうか確かめる海戦は、歴史上遂に発生しなかった。
「軍人とは前回の戦争をもう一度やろうとする」 とはチャーチルの言であるが、清国の洋務派も決して例外ではなかった。イタリアは地中海を決戦海面と想定した。地中海は内海であって、波浪は低く、「航洋性」(波の荒い大洋を航海する能力)がない設計で十分であった。このため、タライを浮かべたようなモニター艦形式(河川哨戒艇からきた言葉で、喫水線を浅くした艦船)を採用した。 復元能力によって艦の転覆を防ぐのではなく、喫水を浅くすることによって重臣をを低く保ち、傾斜自体を少なくする方法であった。「定遠」「鎮遠」も、モニター艦形式を採用したが、渤海湾・黄海のような水深が浅く、波が穏やかな海面では差し支えないと考えたのであろう。ただし艦幅は広く、速度があげられない。「定遠」「鎮遠も14.5ノットの鈍足であった。 帝国海軍はこの形式を一顧だにしなかった。日本は大洋に浮かび、周囲は荒波が行きかっており、航洋性を重視するしかなかったのである。 フランスでは、このイタリア型巨大戦艦に対抗する戦術・造艦が海軍若手軍人によって熱心に研究された。彼等はジャンエコールと呼ばれ、「小さな小口径砲多数を装備する艦は、よく巨大戦艦を倒すことができる」と主張した。さらにジャンエコールのうち多数派はタンブル・ホームという独特の艦形が有利であると信じた。 |